日本人の「行間を読む力」について

どこの国の人が「行間を読む」のが得意なのか? 日本では、もしかすると日本人は行間を読むのが得意で、西欧人は苦手であると思い込んでいる人もいるようだ。最近はもうそんなことはないか。

日本人の「行間を読む力」について

日本人は行間を読む力が強いと思っている日本人は多いように思う。しかし、それは大いに疑問だ。

実は、日本人は世界の中で、あまり得意な方には入らないのではないかと思う。ささやかな気候の変化の中に季節感や風流を感じとったり、気持ちを推し量ることに長けていることには、かなりの自信がある。

しかし、行間を読むという言葉には、それが言葉や文章であって、相手の意図を精細に読み取るというニュアンスがある。

自らと相手の、政治的な距離感や位置関係を把握した上で、言葉の表面の意味と裏の意味とを両方とも響かせながら、会話を進めていく技があり、こういう場面で、「行間」ということがクローズアップされることになる。

言霊など、言葉の力には、信を置く文化でもあるので、言葉には慎重であるので、思ってもいないこと、本心と逆のことを言うことに抵抗感を感じる人が多いということはあるかもしれない。

最近になって、欧米と日本を比べて「空気を読む力」にはさほど大きな違いはないが、読み取る先の社会通念が大きく異なるのだという意見を聞いた。確かに、集団主義的なのか、個人主義的なのか、均一性が高いか多様性に富むのか、宗教観やタブーなど、社会のあり方の違いによって大きく異なるであろう。

西欧における事実と真実について

しかし、西洋の哲学では、精神と言葉とは独立しており、本心と異なることを言うことも、事実と異なることを話すことも、主要な宗教は全く禁止していない。

科学的に事実とされたことも、ローマ教会が神の摂理から否定したりすることもあるわけである。神の摂理というのは、単に観察された事実という意味ではなく、信仰をベースにした真実の言葉によって語られるものである。

このように事実と真実というものが、別個に独立に存在し、しかもそれぞれが正しいとされ、にもかかわらず事実と真実は矛盾するという世界である。このような環境で鍛えられたレトリックは実に巧みなものである。

もちろんヨーロッパやアメリカでも行間という言葉がある。ヨーロッパにおいては、フランス人が行間を読むことに長けていると言われる。言葉で言わず、大げさな表情をするでもなく、意思を伝えることが、外交などでも活かされているという。それは、スポーツにおいて、特にサッカーの戦いに活かされることになる。

イギリス人も長い間フランスに支配されていたせいか、行間を読み、二枚舌や三枚舌を操るという。これら二国の「行間を読む」という言葉の裏には、別の意味が含まれている。つまり、相手を欺いて、真実とは異なる別の意味を読み取らせる能力が、行間を読むことの上に積み重なることになる。

Between the lines

さて、アメリカ人も、日本人程度かそれ以上には行間を読めるのであるが、ヨーロッパからはちょっと下に見られており、行間を読む力はさほど高くないという評価になっている。これを日本では鵜呑みにしてしまい、アメリカ人は力技で直球勝負であるかのように解釈する節がある。

これは明らかにアメリカ人に対して過小評価である。大金をかけた時のアメリカ人のポーカーフェイスは、ヨーロッパ人に勝るのではないか。さればこそ、ビジネスで世界の勝者になれるのである。

フランスでは、文学作品でも行間を読めという。情景を思い浮かべるとか、そういうことよりも、本心を見抜くことが求められる。主人公は本当はどのような人物で、何を求め、何を実行したのか、徹底したリアリズムで追求するのである。

国語力とは、どのような力のことか。ヨーロッパでもアメリカでも、文章からどれだけ正確に情報を汲み取り理解できるか、が国語力である。話し手や登場人物の生い立ちや環境から、ありうべき現実的な人物像を想定して、もっとも的確なメッセージを読み取ることが目的である。

日本人が「花子さんが一番美しいと感じたのは何ですか?」などと、のどかな設問してるうちに、日本以外の国々では世界で生き抜くための総合的で実践的な言語能力を鍛えているのである。

(作成:2017年2月16日)
(更新:2021年1月23日)


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