箸と茶碗

日本人が当たり前と思っている習慣が、実は一般的では無かったという経験は時々あるもので、日常的であればあるほど気付く事が難しいものである。

箸を使う国はアジアにはたくさんある。箸は実に偉大な文化であり、すこぶる洗練されている。まあそこまでは、大抵の人が知っている。しかし、家庭の中で一人一人が自分専用の箸を持っているというのは、アジアの中でも日本と韓国しかない。

中華料理屋に行くと先が細くなっていない箸がざらざらっと並べられる。上下の区別が無いものが一般的である。あれはレストランだから皆同じになっているのかというとそうではなくて、家庭でもそういう習慣になっている。

日本では、茶碗と箸は多くの家では各人専用のものがあり、食後の湯飲みも専用になっている家庭も多いだろう。ところが面白いのは西洋から来た食器具に関しては欧米流である。ナイフとフォークにパパのナイフもママのナイフも無い。カレーを食べる皿はみな同じで、ハンバーグを突き刺すフォークもみな同じである。

では日本起源の食器は各人に専用に割り当てられているかというと必ずしもそうなってはいない。お椀は揃いの椀を使い、焼き魚を盛り付ける皿もその他の料理を盛る皿も大抵は共通のものを使うのが普通だ。

一人ずつそれぞれ異なる皿に盛るということも無いとは言えないが、その場合も必ずしも人と皿とは固定的に結びついてはいない。テンポラリである。要するに、箸と茶碗が飛び抜けて特殊なのであって、家庭の各構成員と一対一で結びついているのである。

江戸時代以前も貴族やお金持ちには料理人が介在したので、客と主人との間に社会的な格差が無ければ、あるいは主人が多少の格上だったにしても「もてなす」という観点で同じ食器を用いることはあったようだ。

ここからは全くの想像であるが「マイ茶碗」は比較的新しくて明治の頃に出来た習慣ではないかと思っている。江戸時代は家長は最も偉いのが当たり前である。それがお父さんであったとするとお父さんが一番大きなお茶碗を使うのである。

米の飯を箸で食うことが極めて大切であった時代である。家父長的封建社会の序列のようなものがあったに違いない。茶碗も大きく、箸も太く長かったに違いない。

主人が座敷の中心の一番奥にいて、家族はそこに連なり、使用人は一段低い所で、その他は土間でという、イメージである。余るほどご飯があれば、誰か一番偉い人が大きな茶碗を使う必要も無い。

テーブルの席順が決まっているとうのは世界的に一般的であるようだ。席順はセットされたテーブルを見ただけではわからない。相互の理解の上で成り立っている。欧米でも同じである。でも茶碗と箸のインデックスは、言うまでもなく「米」と「ご飯」を連想させる。つまり米を自由に出来るだけの権威を象徴しているかのようである。

塗り箸の綺麗なものであれば、洗って使うに何も問題はないが、塗りではない削り出しの箸を使っていてはガチガチと歯で噛んでしまったり、なにやら穏やかではいられない。

古くからある箱膳などの膳も重要そうである。箱膳が減るとともに、ちゃぶ台が増加していったようである。そこに西洋式のテーブルがどう絡んでくるのか、このあたりについてもこれから書いていきたい。

 

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