曖昧力という能力

今年の4月のことである。連日の多忙と疲労からか朝の京浜東北線に乗ったらお腹が痛くなって、品川駅で降りたのだった。トイレがどこにもなくて困ってしまう。駅のトイレは大行列でこれは問題外だった。改札を出て、外へ行く。

これはかなり危険な状態だと思っていたら、とあるビルがありそこにはとある会社が入っていて、それは仕事で全く無関係であったとは言えない、まあ曖昧ではあるが、顧客とも仕事上の協力関係と言うこともできなくはない、つまり問題のない程度の微妙な関係の会社の施設であったのだ。

その綺麗なトイレに入って、世の中の助け合いについて思いを馳せていた。会社にはちょっと遅れたけれど、無言でトイレを提供してくれた、というか、誰にも人には会っていないのだけれど、無人で無言のうちにホスピタリティが提供されていたという、この素晴らしい配慮がまことに喜ばしくて、感謝したのであった。

その時「ああ、曖昧力というものがこの世界にはあるのだな」ということに実感として気付いた次第であった。私なりに定義すると「曖昧力」とは「ボワーんと曖昧だけれどもなぜか説得力のあること、あるいは、そのような説得力を発揮する力」と、これまた超あいまいに定義したわけである。

もちろん、トイレというものが無人であるがゆえにこそ発揮できるホスピタリティという狭義の「曖昧力」だけについて言及しているわけではない。トイレは決して曖昧ではないのだが、ある特定の状況下では曖昧な意味を持つことができるという可能性に気付いた。で、ここでトイレとは離れて、今度は社会の様々な場面で、曖昧であるということが独自のパワーを持つことは可能なんだなと感じたわけだ。

「曖昧力」という言葉自体はもう何年も前に既に本としても書かれている。読んだことはないのだが、文化論として日本人の曖昧さの社会・経済的な効果が論じられているものと勝手に想定している。

現代のビジネスの場面では、訪問した人に対して、「何しにきましたか?」「誰と話したいですか?」「アポありますか?」と曖昧さを許さないのが普通である。

しかし、このような規律正しく厳格なレセプショニストに対して「ちょっとふらっと寄ってみたんですけど・・・」などと言う勇気は私は持ち合わせていないが、もしかしたらそういうことが可能な世界というものもあって良いのではないかと思う。

曖昧なところを明確にしたいと思うのは高等教育を受けた人にとっては染み付いた習慣であるが、そこを逆に曖昧なままキープすると不思議なことに気持ちがちょっと楽になるということがある。相手から動いてくる感じである。ちょっとだけ勇気もいる。

実に曖昧で大変申し訳ない。もう少し時間を頂いてまた続きを書きたいと思う。そもそもトイレと曖昧力の関係はあまりないのに、ありそうな書き方になっており、それだけで誤解を生んでいる。今のままでは誤解発生力であるのだ。

早急に何とかしなくてはなるまい。

 

“曖昧力という能力” への2件の返信

  1. 曖昧ですか。なんかそれには別の呼び名があるような気がするなあと一瞬思ったんですが、この記事を読み終わる頃には曖昧な気分になってどちらでもいいように思えてきました。

  2. さすが!
    曖昧か曖昧でないかというレベルを越えてる感じがします

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