心豊かな生活とは何だろうか?

質素で豊かな生活というのは、日本人にはしっくりくるセンスだと思う。世界的に言えば、質素とは貧乏のことで、豊かな生活と言うとお金持ち・セレブの生活のように捉えられてしまう。「質素で豊かな生活」というのはもっと別のものである。

心豊かな生活とは?

質素で豊かな生活というのは、一般化して言えば、「物質的には多くを持たないけれど、社会的・文化的な価値と接することで、精神的な豊かさを得て、生活を楽しめる」ことだと言えば、説明は堅苦しいけれど、おおよそ意味はつうじるだろうか。

突然ですが、これはすき焼きの写真です。かといって、何か特別なすき焼きというわけではありません。高級な食材を使っているわけでもありません。

しかし、このフライパンはとても長持ちで、小さな鉄鍋だが、コーティングされていないので、何度でもガリガリと洗えて劣化しない。妻と結婚した時に買って、もう20年以上経ったが、全く衰えがない。

衰えないのは、もちろん鉄鍋のことである。当時はちょっと贅沢した気分で買ったけれど、今思い返せば2000円程度のものであった。池袋で買ったのだ。鉄鍋本体も柄の部分も今も健全である。

鉄のありがたさ

鉄のフライパンはこんなに便利で長持ちなので、使わない手はない。では寿命の短いテフロン加工の鍋を使わないかと言えば、もちろん使う。焦げ付かないからだ。これもバランスである。

鉄のフライパンで餃子を焼くのは、コツを知らないと難しいものである。どうしても餃子がフライパンにくっついてしまって、皮が破れてしまう。それはこっち→「餃子のおいしい焼き方(鉄鍋の場合)

それでも鉄のフライパンは大概においては、優秀であって、美味しく調理ができるのである。やはり文字どおり「テッパン」である。

感謝すること

鉄は地球でもっとも多い金属であり、海水にはもちろん、人間の体内にも鉄は溶け込んでいる。鉄がないと人は生きていけないのだ。道具として、という意味だけではなく、そもそも鉄がないと貧血で倒れてしまい、肺で呼吸ができているのも鉄のおかげである。

さて、この鉄のフライパン程度の支出でも、そこそこ豊かな気持ちになれるものである。そして何かを大切に育てること、そしてその気持ちの持ち方が重要なのだ。

鉄を地球にたくさん作ったのは、宇宙の何かであり、それは神様かもしれない。こういう知識を調べて蓄積してきたのは、先人たちである。まずはいろいろなモノ・こと・人に感謝することから始めるのが大切だと思う。

心の豊かさは、楽しむ心

こうして楽しい方向に進んでいくことが、やはり大切なのだと思う。仕事や学校でもストレスが多く、SNSではみんなが様々な自慢をしていたりして、ちょっと妬みっぽくなっている。地味で質素なことはとても大切だ。

お金や地位やプチ贅沢体験などを自慢したところで、その場では虚栄心が満たされるかもしれないが、虚栄心というのはこれも煩悩そのものであって、ちょっと虚栄心が満たされれば、さらにもっと大きな欲が出てくるのが常である。それは逆に悩みの種となってしまう。

楽しむ心のためには、虚栄心は不要で、感謝の気持ちだけで良い。自慢する気持ちは競争につながり、結局は辛い仕事になってしまう。ありがたいと思うことができれば、何かしら劣っているところがあったとしても、愛着が持てる。自分と一緒にいるモノというのは、自分と一緒に生きている唯一のモノなのだ。

音楽や本も旅行も買い物や料理も、生活を豊かにしてくれるものだ。自分一人で楽しめるものは、楽しんだ瞬間に、それだけで自分にとって豊かなことなのである。誰かと一緒ならば、それはまた楽しい時間となるだろう。

なぜ自分が楽しめるのかと思えば、それは恵まれているからに他ならない。洋服を着て、食べるものがあり、住む家があるということ。繰り返しになるが、まず感謝することがが全ての始まりだ。それから次のアクションを考えることになる。

何とも誰とも比べない

私も皆さんもそれぞれ人としてはただ一人の人なわけで、同じ人はいない。自分と接する人は、自分と共にいて独自の体験をしているわけで、同様に自分と接するモノも独自の体験をしているわけだ。

自分と一緒に山登りをした靴は、お店に売っている新品の靴とは似ていても、別の個体である。体験できたことが大きな価値なのであって、モノ自体や出来事自体が特殊だということではない。

だから安易に価値を比較する必要もないし、比較してはいけない。自分にとって大切なものは他の何かと比較しないことだ。自分が大切であればこそ、自分と他者とを比べない。

自分の人生の価値と他の人の価値など、そもそも比べようもない。第一に比べるためのメジャー(物差し)がない。比べようもないことは、そもそも比べようとする必要がない。

「自分の方がずっと良い」と思ったら、その瞬間「私」は鼻持ちならないやつになっているのだ。また自分の方が悪いと思っても、それは「私」の自分勝手な思い込みである。そう思うだけで、真実とは限らない。

袋小路に入って悩まないように、用心をすることが大切だ。「自分が思うだけ」であれば、証拠不十分で無罪放免にする。状況証拠で自分を追い詰めないこと。おおらかで寛容な自分を誇りとして、明日に備えるのである。これは大切な教訓である。

断捨離はしない

いろいろと買い込みすぎれば、生活がうるさくなるようだけれど、そういうことも気にしない。断捨離もしない。断捨離などしない方が良いと思う。どんどんと混沌にまみれて行ったとしても、それはそれで良いではないか。

死ぬ時になって、複雑なもの、得体の知れないもの、ごちゃごちゃと散らかったもの、紙やノートの束、本の山などがなかったら、どれだけ寂しいことかと思う。その時には、自分の家族や親戚だって、もういないかもしれないのだ。それならば、学生時代から何度も読んだ本とかが手元にあったほうが良いに決まっている。

人は死ねば個人的なものは何も残らない。遺族が、記念になるちょっとしたものを取っておいたりするけれども、ほんの少しだけだ。結局全てのものは土に還るのである。生きている間は、いろいろなものが残されていて、謎があった方が何だか楽しみではないか。

人生の終盤になって、誰か他の人が自分の世話を見てくれることを頼りにしたりして、断捨離をする必要なない。

年末に大掃除ができなくなるくらいにものを減らしてしまうと、大掃除の楽しみも半減してしまうではないか。

掃除と片付けは気分が明るくなる

断捨離はしなくて良いのだけれど、部屋や家の中に物が多すぎると憂鬱になるものである。気分が滅入っていたり、暗くなった時は、部屋の片付けや掃除をすると良い。冷蔵庫の中と外を磨いたりするのも大変に憂鬱を解消してくれる。

細々としたもの、特にプリントされた写真やノート・メモ、書類などを整理するのは、莫大な時間と手間がかかる。でも同時にものすごく頭を使う作業でもある。

このような個人的な情報物の大掃除は、世界の他の誰もができなくて、自分でなければできないことであり、そして、ただ一人自分だけが関心が持っているかもしれないことなのである。すなわち、最もやりがいのあるクリエイティヴな仕事だと言って良い。これを大切にすべきである。

また、普段あまりじっくりとできない、クローゼットの奥とか、物置の奥、本棚の本の入れ替えとか、家具の配置換えなどをするのもとても楽しいことである。

古い洋服などもリサイクルや捨てたりするとすっきりする。本も溜まってきたら、リサイクルへ出す。ただ、物を捨てる時は、ボイドタイムをちょっと気にする。ボイドタイムに捨てたものは決して取り戻せない。

テレビは見ない

人に踊らされるのもできれば避けたい。人は人、自分は自分だ。家ではテレビはやめた。→「テレビを見ないという選択

テレビは、あまりにも制作者の意図のままに踊らされてしまう。〇〇の3つのポイント、たった3行のメッセージを知るために、30分もかかってしまう。時間も無駄だし、情報も偏っているように思う。

テレビの畳み掛ける反復情報、笑いやツッコミなどのトークの刺激は、あまりにも強い。ゲームもやめよう。

人は何かにこだわりすぎるとそれがストレスになってしまう。日常の出来事や発見した事の中から、ひっそりと楽しめるテーマを見つけていけたら良いのである。

バランスを意識して、物事を見ていれば何かを盲信することもなく、また世の中の様々な悪に騙されにくくなるだろうと思う。→「災害もバラエティーにしてしまうテレビ報道には強い違和感がある

贅沢をすればいずれは貧してしまう。資金はいつか尽きるものである。継続的に稼ぎ続けられるのであれば、それは結構なことなので良い趣味になるよう品が上がるように目指していけば良い。

教養を高める→心の栄養

教養というと大げさであるが、本を読んで勉強することである。「美術館に行って良い絵を見ました」「コンサートに行って良い音楽を聴きました」というのは、教養を高めることもあるけれど、これらの行為がダイレクトに教養を高めるわけではない。

教養が必要だと言ったのも唐突だったかもしれないが、心を豊かにするのは、やはり「自分で感じたこと」と「自分で考えたこと」が大きな力になってくる。

世界では教育を受けたくても受けられない人が多くいるのだと知っても、それだけではピンとこないかもしれない。日本では教育を受けられることが当たり前だからだ。

例えば、「教育を受けられない人って世界で何人くらいいるのだろう?」とか、「読み書きができない人は世界で何人いるのだろう。とか、疑問を持った時に、自分で調べてみると、自分の知識になる。

さらにその理由を考えて調べていくと、それは自分の教養になる。そう、今までにも小学校から高校、大学に至るまで、そういう練習をしているはずだ。

ふと疑問に思ったことを心に留めておく

疑問に思ったことを心に留めておければ良いけれど、メモもした方が良い。それは自分の心が向かっていく先を表しているから、メモをして蓄積した方が良い。

いつ何を感じたのか、何を考えたのか。それを記録することはとても大事だ。もちろん、学者でもない、哲学者でもない、評論家でもない。大したことは考えていないものだ。

それでも思ったことを連ねていくと、そこには何らかの軌跡があって、方向性もあるように見えてくる。話のネタにもなる。人とのコミュニケーションを助けることにもなる。

ふと思ったことというのは、知識についての気づきであったり、自分の気持ちであったり、あるいは将来についての直感であったり、多様なメッセージがある。自分の世界観が作られていくだろう。

自分の言葉で

いろいろな気づきがあって、気持ちがあると、それを表現するための「言葉」が重要になってくる。言いたいことが複雑になってくると、簡単に説明することが難しくなってくる。

何よりも自分の言葉で、いろいろなことを蓄積していくと良い。自分の人生を語るのは自分の言葉しかないのだ。

単なる他人のものまねでは何かに取り組んでもあまりうまく進まないということもあるが、友人知人の勧めというのは素直に受けてみると良いことも多い。

最初は、言葉も考え方も本や人から習うので、模倣であって良い。それを積み重ねていくと、ある時から自分流というものが出来てくるようだ。

自分の活動を日誌にすると良いかもしれない。活動記録みたいに、どこで何をしたのか、何をして、何を見たのか、何を感じたのか。単調な記録になっても良いのである。

就活などで自己アピールをする場合も、自分の言葉で表現できれば、それは大きな説得力につながるのではないか。借り物ではない、自分というものが確固として存在することを示せるのである。

自分の言葉の蓄積が、自分を助けることになるはずだと思う。

幸せは自分の中に

経済的には豊かになったとされるけれども、社会はどんどんと複雑になり自分が幸せでないと感じる人も多い。不平等が広がっているからだ。

社会的な不平等は、経済的な不平等をもたらす。不平等に対しては、既得権者とその他の人々との溝は自然に埋まることはない。格差は広がっている。

社会に広がる不平等は、つまるところ国家の責任だと思う。ただし「不幸なのは社会の責任」というのは正しくない。社会や経済というものは、幸せを分配する機能ではない。社会や経済は、ルールを作ってお金を動かすだけである。貧困の問題は、国家が対応しなければならない課題である。

金持ちではなくても、贅沢できなくても、幸せになることはできる。金持ちだから幸せだという相関関係はない。外部環境は関係ないのである。なぜなら「幸せは自分の中にあるもの」だからだ。幸せとは心にうちに感じるものだからだ。

感謝の気持ち

幸せが自分の心の中で育てられると良い。幸せはやはり自分の言葉で育つのである。言葉の蓄積は自分を助けることになるはずである。

それもこれもいろいろな人たちのおかげである。両親や先祖といわず、神様や多くの人々への感謝の気持ちを忘れないでいたい。幸せというのは感謝している人の心に湧いてくるように思われる。

本当にこれが一番大切なことだと思う。


関連:
・「餃子のおいしい焼き方(鉄鍋の場合)
・「テレビを見ないという選択
・「テータイム、もしくはイギリス的午後
・「ボイドタイムとは何か?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください