両親のこと(4) 祖母のこと祖父のこと

母方の祖父母のことについて語る。母と祖母と言うと、男系社会における嫁と姑を想起させてしまうようであるが、これはそういうことではない。

祖母は、明治40年(2月7日)生まれである。祖父は明治33年生まれであった。明治33年はちょうど1900年である。母の父は外務省官僚で、外交官として、第二次世界大戦前にフィリピン、ブラジルに赴任して、10数年海外で生活した。

母の母は、外交官の妻である傍ら、小説家でもあり、旧姓を筆名として幾つかの作品を発表した。

さて、母の父のことは、僕らは「おじいちゃま」と呼ぶように教えられていた。母の母は「おばあちゃま」と呼んでいた。

祖母は背が高くて、「おじいちゃま」よりもちょっと背が高かったように思う。裸足でもちょっと高かったような記憶なので、ハイヒールを履いたらずっと高かったのではないか。

僕が子供だったからだろうけれども、「おばあちゃま」には威厳があって、強うそうに見えた。海外でも多くの使用人や女中を使って来た人が持つ、決然とした支配階級のような態度を身につけていたように思う。繰り返すが、その時は僕はほんの子供だったのでただそのように思ったというだけのことである。

「おじいちゃま」は、外務省を引退してからはしばらくの間、外語大学で講義をしていて、そのあとは完全に引退して、東京中野区でひっそりとした生活になった。昭和54年1月5日に祖母が中野の家で倒れて亡くなった時には、すでに認知症になっていたようだった。親族も気づいていなかった。

「おばあちゃま」がまだ元気な頃に一人で家に来たことがあった。2、3日泊まっていったかもしれない。その時、おじいちゃまがどうしていたのか分からない。家で一人でゴロゴロしていたのか。もう仕事はしていなかった。

その頃の記憶は本当に曖昧なのだけれど、僕は何か祖母から叱られていて、嘘をついたのか、何か悪いことを言ったのかやったのか、それに加えて、そういう中途半端な教育をしている母に対しても、叱言(こごと)を言っていた。

何だかそれが僕のせいで母が叱られているような気がして、何かがあったのか、あるいは何もなかったのにただ僕が反撃したのか、コップに入っていたコーヒー牛乳を祖母にかけたのだった。

僕が手に持っていたコップから放たれたコーヒー牛乳は、狙い寸分たがわず、まっすぐに飛んで行って、お腹からスカートにかかった。コーヒー牛乳の雫が畳にぽたぽたと滴る。

祖母はしばらく言葉を失って、僕には1分くらいに思えたが、おそらくはほんの5秒ほどであったろう沈黙の後に、ようやく口を開いて、「〇〇(僕の名前)は、やってはいけないことをちゃんと知らなければいけないようね」と言って、ふっと息を吐き出すようにして、くるっと振り向いてそのまま去っていった。

なぜこれほどまでに怖かったのか。それは、母が怖がっていてからだと思う。家事にしても、育児にしても4人の娘を生み育てた、明治に生まれた軍人の娘である祖母のことを母は尊敬もしていたし、恐れてもいた。平成の家族関係とは根本的に異なっているように思う。祖母は福岡の女学校を卒業しているけれど、当時の女子は女学校や大学に進学する率はあまり高くなかっただろう。

「おじいちゃま」は、外務省で海外の大使を務めた高級官僚であるような姿を僕は一回も見ることはなくて、いつも黒っぽい着物を着ていて、縁側でトランプを並べてクロンダイクをずっとやり続けていた。ポパイみたいな顔つきをしていたのだ。

今にして思えば、いつもずっとトランプで一人ゲームをやっているという時点ですでに認知症が始まっていたのだろうと思う。会話が少なかったのだろう。もっと頻繁に交流していたら、また違った結果になったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。母も母の姉妹もそれほど頻繁には訪問することはできなかった。母は四人姉妹なのである。

そこで思うのは、今とは時代が違っていて、友達のような打ち解けた親子関係というものが当時はそれほどなかったのではないかと思うのである。もっと上下関係がきちっとしていたのではないかと思う。それまでの仕事とか、戦前の大日本国帝国の体制とか、あるいは彼らのその両親の仕事とか家庭とか、実態はよく分からないのだけれど、そういうことが関係しているのかもしれない。

今思い返してみれば、僕の振る舞いに弁明の余地がなかったので、母も言い返す言葉がなかったということだろう。祖父と祖母は、ちょうどこんな写真の感じであったのだろうと思う。

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