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2015年の安全保障関連法案の違憲審査
2015年6月の衆院憲法審査会では、3人の憲法学者が違憲という判断を示した。民主党が指名した慶応義塾大学の小林名誉教授のみならず、自民党が指名した早稲田大学の長谷部教授も、安全保障関連法案を違憲と指摘した。
当時はニュースを聞いて、小気味良い感覚を持ったものだが、結果としては何も影響がなかった。日本の最高の憲法学者の意見が完全に無視された形だ。
憲法9条で「戦力を持たない」と規定しているが、自国を一切出て行かない先守防衛が確実な自衛隊であるならば、ぎりぎり自衛隊を憲法解釈で合憲とすることができた。1950年のことだ。
ところが、集団的自衛権となると、日本国外で、つまり公海上や他国の領土内で、日本人が攻撃を受けていない状況で、日本の自衛隊が同盟国の防衛に出動するということになる。
これはもう自衛とは言えないということだ。
朝日デジタルの記事「安保法案学者アンケート」では、憲法学者ら209人にアンケート依頼し、回答が得られたのは122人だった。そのうち104人が憲法違反と判断し、15人が憲法違反の可能性があると回答した。「憲法違反」の比率は85%、「憲法違反の可能性がある」を含めると98%が違憲と回答した。
テレビ朝日の「憲法学者に聞いた〜安保法制に関するアンケート調査の最終結果」では151人の憲法学者にアンケート調査を行い、151人から回答を得て87%が違憲と回答した。ここでは実名のコメントが載っており大変興味深い。
集団的自衛権は国際法として実は弱い存在!?
集団的自衛権という権利の発動も実は歴史的にはそれほど一般的なものではない。
集団的自衛権は、1945年の国連憲章の51条に明文化された権利である。集団的自衛権の行使に当たるとされる事例を調べると、直近では「2001年のアフガニスタン紛争」となっている。
アフガニスタン紛争というのは、アメリカへの9.11テロに対抗してタリバン政権下のアフガニスタンに米軍が攻撃した軍事行動である。信じられないことだが、安保理決議では個別的及び集団的自衛の権利がアメリカに認められている。
アフガニスタン紛争とは、アメリカが単独国家の怒りを露わにした、タリバン政権への復讐そのものだと思っていた。
犯行を首謀した人はアフガニスタンにいたかもしれないが、そうであってもそうでなくても、その家族や都市や国家へ向けて範囲を逸脱した過剰な攻撃だった。
これが集団的自衛権か。1981年のコントラ戦闘。これはアメリカがニカラグアの反政府勢力コントラを支援したもの。
極め付けは、1964年のトンキン湾事件を契機として介入した、ベトナム戦争だ。アメリカはベトナムへの軍事介入を集団的自衛権の行使として進軍した。これが集団的自衛権に当たるのかどうかは現在でも疑問視されている。
集団的自衛権というのは、国際法上も微妙であり、基本的人権のように明確ではないというのが実態だ。
憲法9条は今も正しいのか?
先ほどの朝日系の調査ではおおよそ憲法学者の85%以上が違憲だという見解であったが、それはあくまで憲法に対して反しているという判断である。
それが日本にとって、良いことなのか、責任ある国際国家としてどうあるべきなのか、という考え方は憲法学者も意見は分かれている。
「違憲である→だから法律を修正/廃案すべき」
「違憲である→だから改憲すべき」
単純化すれば、この2パターンが主流である。
「違憲である→憲法解釈で乗り切る」という暴論もあるようだが、憲法で決めたことを守れない国というのは国際社会では信用を失ってしまう。これは大変説得力がある。国際条約をきちんと守れる国でありたい。日本もそうあるべきた。
しかし、アメリカのトランプ政権のように、もう今ではそんなことがもうめちゃくちゃになってしまっているようにも思われる。
韓国は日本大使館前の少女像を撤去しない。中国は領土を侵してくる。ロシアは北方領土。北朝鮮はミサイルと拉致。アメリカは今も沖縄で暴れている。
隣の住民が勝手にゴミを捨てたり、領土を掠め取っていくような人々であっても、日本人はそういう真似をせずに、後世の人々が振り返ったとしても歴史に恥じない行動を貫いて、しかも現在の状況を切り抜けたい。
1947年にアメリカの強い意向を反映して施行された日本国憲法は、もしかしたら「現代の日本人の冷静な目」で見直す必要があるかもしれない。見直すというのは強化することも含む。「日本は世界の平和を脅かす好戦的な国家には従わない」というようなフレーズをつけてもよいのだ。
戦争の悲惨さを忘れない
私の両親の世代は戦前生まれだったが、終戦の時に中学生だったから、それ以前のことを何も知らなかった。戦争が終わってから、やっと本当のことが分かったという。
父母の両親にしても不用意に子供に真実を教えて、非国民として不当な懲罰を受けてはかわいそうだ思ったかもしれないが、当時の戦時体制の教育内容に異を唱えずに迎合する結果となってしまった。
満州事変以降、日中戦争、5.15事件、2.26事件など、政変が頻発する中で、日本軍は先鋭化していったのだが、それがどのように進んだのかは今もよく分からない。
国内においても、国粋主義が主流になればそれに対抗する極左勢力も現れる。それを国が弾圧し、特高が摘発して拷問したり、どう考えても人道的ではない時代を迎えた。
ニュースが日本軍に検閲された内容だけを報じる国だったので、それを日本人は戦後恥じたのだった。これは現代においても対策が不十分で、まだ解決をみていない。
日本人は、みな全員が反省させられたのだ。戦争をした人も、戦争を止められなかった人も、そして戦争の被害にあった人すらもが反省した。
一方で、戦争は日本の責任で起こったということを日本人は強く信じるようになった。その経緯はGHQと統治下の政策にあると言われる。日本の戦後の政権もアメリカ寄りで成り立っていた。
それから70年が経ち世界は大きく変わった。日本はもう戦争に向かうことはない。アメリカに促される形であっても決して戦争に参加はしないだろう。
これからの日本は?
日本は大人の国であるから、家に庭に入ってしまったボールを取りに来た近所の子供を恫喝したりすることはない。優しくボールを返してあげるのである。
それでも、家の庭に得体の知れない集団がテントを張って暮らし始めたら、それはお引き取りいただくように対処すべきである。寛容だけでは成り立たない、自らの尊厳は自ら守らなければいけない。
大人の国として、後世の歴史においても恥じることのないような判断をすることが、現代の日本人にとって一番大切なことだ。日本は大人の国である。世界には大人の行動をとらない国がたくさんある。
その日本人の大人の感覚を持って、憲法を考えていくべきだと思う。憲法は日本国民が、自ら作っていくものなのである。その知識と感性を日本人は持っているはずだ。
日本人が、日本人の平和観を世界にアピールして、戦争や兵器のない未来を目指して行動するべきなのだと思う。これは現実的に実行できることだ。アメリカの核の保護にとどまる必要はない。何をおいても、世界から信頼され尊敬される行動ができる国にしていかないといけないと思う。
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