大人が、大人らしくないと言われる。そもそも、大人と子供の違いとは何か? 「大人の対応」とか「子供みたい」と言う時には、どのような意味なのか。
大人の特徴と子供の特徴
大人の特徴と子供の特徴をまずざっと思いつくままに挙げてみる。
大人の特徴:
・常識をわきまえている(常識って何?というのは置いておいて)
・小さなことで騒がない
・人任せにしない
・自分で責任が取れる
・子供や後輩の指導ができる
・相手の立場に立って考えることができる
・冷静な態度で接する
・喧嘩しないで我慢する
子供の特徴:
・当たり前のことを知らない
・小さなことで大騒ぎする
・すぐ人に頼る
・人のせいにする
・遊ぶことを優先
・他人の気持ちを考えない
・調子に乗ってわるふざけする
・頭にきたらすぐ暴れる
このように並べてみるとそれらしく見える部分もあるけれど、大人がみな大人の特徴を備えているわけではないし、子供だって大人の特徴をたくさん持っていることも一般的なことだ。
大人的な特性と子供的な特性と考えられるものがあって、それをどの程度の割合で持っているか、によって大人度と子供度をおおよそ判定することもできるだろう。
大人になるということ
大人が大人らしくないということを、大人として責任を持って考えるならば、大人が大人らしくないのは、大人が良い手本を示すことができないからだと考えることもできる。
子供が大人になるには、たいていの場合、大人の指導を受けて、大人を見習って成長するものだからだ。
前回書いた記事を、そのまま下に残しておいたが、今読み返してみると、大人らしくない部分がある。大人が大人らしくないのは、現在の大人(私、プラス大人たち)の責任である。
元々は、ホリエモンや糸井重里のような、ただ楽しければ良い、ただ気持ち良ければ良い、社会のことなんか全然気にしない、と公然と言う人たちへの抗議だったわけだが、そこは明確には書かなかった。彼らに対して、理解もできないし賛同もできない。
そして、(ここで話が少し飛躍するけれども)日本が何もかもアメリカの言いなりで動くのもそろそろやめるべきだと思っている。アメリカが日本に対して行っている情報操作からも脱するべきだと思っている。
そのような動機で書いたものだった。なので、真実を見極めろという流れで話が展開していくので、少しピントがずれているように思われたことだろう。
大人であるという意味
大人になるというのはどのような意味があるのだろうか。これは特に日本語のニュアンスの問題でもあるが、内容については世界的に普遍的なテーマである。
「大人の対応」などに見られるように、理不尽な扱いを受けても我慢するとか、悪事を見ても見ないふりをするというような態度がある。上司や目上の人たちの意向に背かないようにすることもある。
青春ドラマで「いつまでも夢なんか見てるなよ。そろそろ大人になれよ」といって、夢を諦めたり改心させようとする場面でも使われる。「所詮〇〇はできるわけない」とか、ただ単にネガティブな現実主義に対して言うこともある。
「大人は信じられない」と子供が言うのは、このような大人に対して、であろう。
一方で、本当は自分で欲しいのだけれど、人に譲ったり、利他的な行為を言うこともある。これは損をしても我慢するのが、大人ということで、最初の方の我慢する行為の裏返しである。
さて、これに対して、前向きな大人がいて、良識があったり、責任感があったり、善良で、平等な意識を持ち、自己主張をして、社会のために行動している人がいたとして、でも、その人のことを「大人だ」とは言わない。
もっと別の価値観で評価されるはずだ。
だから、本当に言いたかったことは「大人」ではなかった。「社会の問題を自分たちのこととして考えよう」ということを意図していた。
高校の時、大学の時はもっと社会のためを考えていた人が、やがて大人になり「家族のため」「生活のため」に身をすり減らすように変わっていくのである。そうであっても、「社会のため」を両立させることは可能である。
逃げない人たちもいる。それで言うなら「大人になれ」ではなくて「逃げない人になれ」ということだ。
大人であるなら・・
そもそも論で言うと、大人であれ子供であれ、どのような主義主張を持っても構わないわけで、意見の違いは当然ある。
楽しければいいというのは、それは生き方であり、その人の自由である。だから子供っぽいとは思っても、矯正的に止めさせることはできない。
一方で、それは幼稚なことだ、やめるべきだと批判する自由もある。
(追記:2021年1月17日)
以前の記事 [2019年4月14日の記事]
日本人よ!大人になれ! 大人になれない? いや、大人になろうとしていないのだ!
名誉やプライド、尊厳とか矜持などが、影を潜めてきた。大人が、大人らしくない。オレ俺、ワタシ私、になっている。つまり、わがままなのだ。一体どうなっているのか。大人はどこへ消えたのか。
正義 vs. 自分最適
「自分だけ最適」が今では市民権を得たのか、遠慮も恥ずかしげもなく、普通の意見であるかのように表明されるようになった。得をすること、楽しいことがインターネットで検索され、需要に応じて次から次へとコンテンツが供給される。得をする方法に群がるのは別に構わないが、それを全員がやったら問題となるようなこともある。
「とにかく楽に生きたい」という人が多くなったのは不思議ではない。未来に期待が持てない人が年々増えている。他人の面倒をみる「心とお金の」余裕がない。
社会のため、世の中のため、正義や名誉のために何かをするという人は、見かけなくなった。命をかけるということもない。これは良い時代になったということなのか。
しかし日本は本当に良い国なのだろうか。
日本の長所はたくさんあるが、負の部分も見過ごせない。東京都心の電車の発着時刻は次第に正確ではなくなってきた。労働時間は長い。高齢者と若年者の貧困の問題もある。貧富の格差は年々拡大している。自殺者が多い。学校でも企業でも陰湿ないじめがある。
日本の企業および日本経済も、日本人の教育レベル・研究レベルも、世界の上位から徐々に下りつつある。
社会のため、世の中を良くするために、みなさんはどんなことをしていますか?
人の話を聞くこと、そして社交という文化
会話をしている時に、相手の話を最後まで聞かない人がいる。これは大変に恥ずかしいことだ。一人で自分の話だけをして楽しい、という様子である。
懇親会やレセプションなど、お酒が入ると日本の飲み会特有の雰囲気になることがある。つまり、勢いのある話慣れた人が大いに喋って、一方ではツッコミで笑いを取るタイプの人が脇で小気味好くツッコむのである。他の多くは聴衆となる。聴衆慣れしている人は、手を叩いたりのけぞったり、笑わされる側のリアクションがすごぶる上手である。
このような場面はよくありますよね?
場の雰囲気で、自然と観客と聴衆が出来上がる。楽しいけれども、何か気持ち悪い。あれ、この違和感は一体何だ?
それはいつもテレビで見ているバラエティの構図に他ならない。面白いコメントをした人がオンエアされ、そうでない部分はカットされる。テレビタレントの世界は紛れもなく競争社会である。
テレビで見慣れているため、場を盛り上げようというサービス精神で、普通の人が、芸人やタレントを真似て同じようなことをするのである。(でも、我々の日常のコミュニケーションは決して競争ではない。)
このような雰囲気になってくると、もはや「多くの人と会話を楽しむ」ということはできない。それでは「社交」からは遠ざかってしまう。
「社交とは、全員が対等に話し手と聞き手になるのことである」と敢えて定義してみる。これはイギリス人が得意とされている。発言の一番少ない人が話しやすいように場を作るのである。
アガサ・クリスティの小説では時々そういう場面がある。一人で大声で喋り続けている人がいると、その相手が高貴な貴族であっても心ある平民が調停に乗り出すのである。
大人の尊厳
大人が手本を示さなくなった。子供の手本となろうという意識がない。大人は、子供に、正しいことを教えることをせずに、楽な処世術を教えようとする。
大人が、いじめのグループに逆らわないようにと、子供に教えるのだ。
まずは親が/大人が、いじめは悪いことだと、はっきり教えるべきである。大人が損か得かを先に教えてしまうと、いじめをなくすことが難しくなる。楽しければ良いという論理では、正しいことを教えられない。いじめることが楽しいならば、それが良しとされてしまう。それは間違っている。
そうかと言って、学校で道徳を教科にしたことも気持ちが悪い。教科になると成績を付けるのだ。形式的な善悪で「良い子」を作っても意味がない。政府に従順な人間を育てようとするような教育カリキュラムは間違っている。
様々な状況で、何が正しいかを自分で考え、それを周囲の人々と議論して共有して行くことができるようにすることが、一番大切なことである。
大人の罪なのか・・・
生活の中では、親が「ながらテレビ」「ながらスマホ」を行い、それが子供への悪い手本となってしまう。親がスマホ依存になるのは親の勝手だが、親の悪い見本のために、子供が依存症になるのでは子供がかわいそうだ。
校長先生が生徒と一緒に給食を食べている時、生徒から「校長先生はご飯を残すの?」と訊かれると、本当は医者から「炭水化物は減らしてくださいね」なんて言われていても、「ううん、よく噛んでゆっくり食べてるんだよ」と見栄を張って、全部食べてしまう。
大人の尊厳を守ることは重要なことだ。自由と平等は大人も子供も一緒だけれど、大人には子供を守る義務があるから、それに伴う責任が生じる。その部分が子供とは異なる。大人は我慢しなければいけないことが子供よりも多いのだ。
そこが一番大切なことで、我慢するから自由と平等が成り立つということ、それを大人が手本で示せるようにしたい。アメリカの自由主義は少し異なるが、それは特殊な成り立ちを経てきたからであって、世界の標準では決してない。アメリカをよく知っている人たちが陥りやすい過ちである。
マナーを守る
マナーは、守るのが良い。食べるときのマナーは重要である。
肘はどちらも決してテーブルにはつけないとか、手首もテーブルには触れない、載せない、などは基本だ。咀嚼するときは唇を閉じる。お茶碗を持つ。食事中は足を組まない、立膝もしない。お箸は正しく持つ。
他には、会う人には挨拶をする、帰宅したら手を洗う、人の悪口を言わない、などなど基本的なこと。
人それぞれ、独自の流儀があり、それぞれの宗教や、それぞれの教育方針があり、マナーも一律ではなくなった。多様性への配慮も必要だ。それぞれで良い。一貫性を維持できれば良いということだ。
お箸も食事も食事のマナーも文化なので大切にしたいと思う。まずは自分の家の流儀を決め、それに則って、粛々とこなしていくことである。家の流儀は、一度決めたら守る。それは習慣となって定着する。
小さなことの積み重ねが文化の土台となっていく。大人が大切に守るものを子供は大切だと感じるのであれば、それは次の世代に伝わる。取るのも捨てるのも、最終的には次世代の判断である。大人には良いものを伝える責任がある。変わるべきものもあり、守るべきものもある。
大人としての責任を感じる時
私は、40代で両親を亡くしたので、それから一気に年を取ってしまったような感じがした。そんなに気張っているつもりはなくても、あれもこれもちゃんとやらないと、と思ってしまうのだ。もう自分を叱ってくれる人はいない。
そう思って周囲を見ると、同じ50代の世代の人でも親が元気でいると色々と甘えがあるようである。親が生きている間は、社会での立ち位置がやはり何かしら曖昧なようである。大人となり親となっても、やはり責任感が弱いように見える。
人によってタイミングは異なるだろうが、社会の問題は自分たちの責任であると自覚する時が来る。きっかけは様々だ。責任を自覚した時に、本当に大人になるのである。
親が生きている間は、今にして思えば、ふんわりとした安心感があった。親が高年齢になると健康や何かと気になってしまい、親のありがたさを見過してしまいがちだが、いつも強い味方だったことを改めてありがたく思う。
社会参加を意識
政治家がかなりの悪事をしても、周囲も本人も平気でいるのは異常なことである。
「政治は確かに悪いけど、それは僕の責任じゃないから」
「オレがどう思ったって、それで総理大臣が考えを改めるわけじゃないから」
正常性バイアスというのは、災害の時だけではなく、政治家の汚職、役所の隠蔽、企業の違法行為などの事件に接しても同様に働く。「まさかそんなひどいことはやっていないだろう」とつい考えてしまうのだ。
普通の人、普通のサラリーマンは残虐・非道なことをする機会も権限もないから、身近な事として考える事がない。どうしても自分には被害は及ばないだろうと考えてしまうのだ。
官僚が文書を改ざんしても、それを指示したらしい大臣らが何の咎を受けなくてなぜ平常でいられるか不思議である。本人には罪の意識がない。周囲にもない。国民は指摘するけれども、それほど強い違和感もない。
汚職や不正をもう止められない。止める倫理的な力がない。そして、それを支える法的な枠組みもない。もうどうしようもないような状況になっている。何とかしようと、と思うけれども、周囲に訴えると、周囲の大人が疲弊し切っていてそんな力がない。
まず、周囲の大人たちを助けてあげないといけない。
低俗なものに慣れない
今の日本には、国の在り方や社会の進むべき方向などについて、意見交換する場がない。と言うか、安全に、素直な意見を言える場所がないのだ。何か言うと叩かれたり、炎上したり、冷たい敵意で返されたりすることがあるので、本心を言うことは難しい。
では何があるのかと言うと、娯楽ばかりなのである。娯楽も低俗なセンスのものが溢れている。表現の自由というレベルの話ではない。芸能人の私生活の話とか、痩せる薬、そして根も葉もない噂などが、絶え間なく増殖している。
低俗に定義はないが、皆さんが、低俗と思うものは間違いなく低俗だろうと思われる。
大人たるもの、低俗センサーを敏感にしておきたい。慣れてしまっていて、相当低俗なものを見ても嫌悪感を持たずにスルーできてしまう。政治家の暴言に対しても慣れてしまっている。「慣れ」とは常に危険だ。
低俗だな、と思いつつも見てしまうこともある。勇気を持って、見ないという選択をすべきである。誰も見ていないから、こっそり、というのはもうインターネットでは出来ないのだ。アクセス数は電子的にカウントされているので、ちらっと見ただけでそのサイトのアクセス数を加算してしまう。低俗なものには、クリックしないことを是非とも徹底されたい。
ジャーナリストを潰すな!
マスコミは、国や政治家の勝手な行いを監視する役目を担っているが、それがうまく機能していない。人々が政府筋の情報に汚染されいているのか、あるいは大手のマスコミは国や権力に取り込まれているのか。
マスコミの信頼が落ちていることで、ジャーナリストは仕事がやりにくくなっているという。ジャーナリストの役割や存在意義を軽んじる発言をアメリカの大統領がツイートし、それに同調する人もいる。
真実を知りたいと思う人々が、ジャーナリズムを支えて行くことができるのである。欧米の報道は、個人としてのジャーナリストが発表するための機能を持っているだけで、会社側が報道する中身を指定することはしない。
今の日本のネットやテレビやラジオ、新聞・雑誌はほぼ全部が娯楽になってしまっている。本当に、人々の関心は、エンタメとゴシップ、アイドルとゲームなどの娯楽ばかりになってしまったのだろうか。
真実を知りたい人は今もたくさんいるはずだ。遠慮なく、躊躇せずに、真実を知りたいと言うことが大切である。それが大人の態度だと思われる。
ジャーナリストを助けるために
テレビでは視聴率で判断される。テレビの視聴率はものすごく大雑把で、オンかオフかしかない。しかし、ネットの視聴率の分析はもっと詳細かつ巧妙で、どのサイトをいつどれだけ見たのか、サンプルではなく世界のPC、スマホの全数を把握することができる。
今では、クリックはリアルタイムの信任投票なのだ。それを意識しないで、ただ娯楽のつもりでネットを見ていると、ますますジャーナリズムを縮小させることにつながる。買ったり売ったりしなくても、インターネットはそれ自体が莫大なお金を動かす広告メディアだ。クリック一つでお金の動きを操作していることになる。
政権政党に批判的な報道をしたからと言って、メインキャスターが降ろされてしまう日本のテレビ局とは一体いかがなものか。日本で一番大きな組織がこのような有様では、他の民放が率先して自主規制して忖度(そんたく)報道になってしまうのも仕方がないのか。嘆かわしいというか、心が痛む。
ジャーナリストが本来の仕事をできるようにしたい。そのためにもジャーナリストを応援していきたい。誰が一番真実に近い報道をしているのかも、日々よく考えてみないとならない。
社会は決して自然治癒しない、苦労している人がいる
世の中は自然と良くなっていくという楽観論があり、大人もそういう発言をすることがある。それは自由だ。100年単位で見ればも世界は良くなった。人権は向上しただろう。
でもそれは自然にそうなったわけではない。戦って勝ち取って来たものだ。ただ楽しいことをしていけばそれだけでいいんじゃない、ということはない。そのような「おいしい生活」的な発言は無責任であり、大人の言葉とは思えない。
+の勢力と-の勢力があって、いったりきたりしている。活動をしている人たちがいるからこそ均衡が保てているのである。そういう世の中のことも大人であればちゃんと勉強してから言って欲しい。歴史を振り返れば、社会は放置すれば悪化するという教訓を思い起こそう。
子供扱いされて平気なのか?
ショッピングセンターのエスカレータで流れているエンドレスの音声があるが、全く意味がない。アナウンスを聞いて理解できる人は元から知っている。
本当に注意が必要な人は、そもそもこのようなアナウンスを聞いていない。すると、知っている人だけに騒音を流し続けることになる。全く無意味である。
公園で看板にたくさんの禁止事項が列挙されているのも、恥ずべきことだ。
自由に考える、とは?
自由に考えろ、というのは無責任になれというのとは違う。無責任で良いというような本が多数出版されそこそこ売れているようである。この手の本はどれもこれも、すべて大衆迎合だ。無責任な大人たちに、それでいいんだよと勇気付けてやった挙句に、お金を稼ごうとは不遜極まりない。
好きなことだけやれば良いというのは、ある種のメタファーとしては成り立つかもしれないが、文字通りには有りえない。大人には責任がある。責任を取らなくて得をすると考えるのは子供である。教育が必要なのだと痛感するところである。
自由に考えるというのは、あくまでもマナーや社会のルールを考慮した上で行うことだ。不平等や人権侵害がないかどうか、チェックしていくことが重要になる。これを役所がやるのでは不十分で、また個人でできるものでもない。既得権益を是とした固定観念に陥らないように、自由に考えていく必要がある。
セクハラやパワハラが横行!
もう何年もテレビは見ていない。しかし、司会者が2人以上いる番組で男がメインで、若い女性がアシスタントだったりすると、見ていて恥ずかしくなる。男尊女卑思想の人が作った番組に見えてしまう。
18禁的な性的な雑誌が、誰の目にも触れるコンビニの雑誌コーナーにあるのはどうなのか。言論の自由とかいう問題ではない。これは社会が健全な証とは思えない。
そもそも18禁雑誌を買っている人を見たことがない。深夜に売れるのか。ネットの性的な情報も無法地帯になっており、雑誌の陳列をやめても焼け石に水と諦めるのか。
日本人は欧米の感覚で見ると若く見えるので、こんなに小さな子供に水着を着せて・・・と思われる。ヨーロッパでは小児ポルノを排斥しようとしているのに、日本のこの寛容さは大変奇妙であり強い違和感がある。
今の社会の問題は、今の大人たちの責任である
社会の責任ということがあるけれど、そもそも「社会」というものの実態は何なのか。それは実は明確なことなのだと思う。堅苦しく言うと、大人たちの大人の良識をベースにして、民主主義によって導かれた価値判断である。
今、大人たちが揺らいでいるので、大人の考え方が安定的ではなくなってきた。大人の判断というのは、綺麗事でも教科書的な正解のようなものとは本質的に異なるものだ。
若者の未熟さに責任転嫁しようとする大人を信用することもできない。なぜなら、若者を育てる責任は大人にあって、十分に育てられなかった責任があるのである。大人に魅力がないために大人になりなくないというのも、まさに大人の責任である。
こういう話をすると、それは前の世代の大人であって、自分たちの世代の大人の責任ではないという人がいる。馬鹿なことを言うものでは無い。社会を担う責任を持った人が大人であって、それには今も昔もない。今ある社会の問題は、すべからく今の時代を生きている大人の責任である。
当たり前の「人道」を
乳児を放置して殺したり、子供を虐待して殺したりするような事件が多い。近所の人がマスコミのインタビューに対して「ものすごい声で鳴いてましたね」などと普通に返答していたのを聞いて愕然とした。
これで子供が殺されて、その人は助けられたかもしれないのに、なぜ通報しないのか。命優先とは考えないのか。所詮は他人ごとなのか。
知り合いには親切で、知らない人には意地悪だというのは日本人に対する外国人の批評である。電車に乗ると、知り合いには席を譲り合うのに、そうでなければ我先に取ろうとする。感覚的に全く理解できない。それは、本来、逆ではないのか。
世界の中での日本
戦うことは悪いことか? 戦い自体が悪いわけじゃない。何に対して戦おうとしているかが、良し悪しを決める。善に対して戦うのか、悪に対して戦うのか。
日本には大きな課題がある。高齢化に伴う、医療と年金を含めた社会福祉政策の問題。高齢化に伴う、雇用と労働力の問題。アメリカの軍事基地や地位協定、日本とアメリカとの不平等な隷属関係の問題。ロシア、中国、韓国、北朝鮮、アメリカとの微妙なパワーバランスの問題。そして、日本のマスコミが全く機能していないという問題(国際情勢が正しく報道されていないという問題)。
アメリカも中国もロシアも、いわゆる大国は、経済摩擦であっても、明らかに嫌がらせである関税をかけたり、軍事的戦略でプレッシャーをかけたりする。19世紀から全く進歩がない。しかも、19世紀のセンスは、世界ではまだバリバリの現役だ。
100年も戦争で負けていない国は、戦争に対する態度が100年前のままである。前世紀の考え方であってもいまだに書き換えられていない。日本の中学高校では、これらの大国が19世紀の野蛮な手法を今も使って活動していることをちゃんと歴史で教えてはいない。
現実を直視すること
世界にはテロがある。テロを支援する国家もある。他国の領土を軍事で犯そうとする国は今もたくさんある。日本のすぐ隣の大国は、他国を侵略することを倫理的に悪いこととして定義してはいない。アメリカも隣国メキシコやロシアを侵略して領土化してきた歴史がある。似た考え方だ。独立した大国ということなのだ。帝国主義は今もまだ終わっていない。全く思いやられることである。
「結局、世界は良い方向に向かって行くんじゃないの?」という日和見主義は無知から来ている。良くなったのはあくまで過去の結果論であり、しかもその時代に活動した人のことも何も知らないで言っているような発言ばかりである。無知を宣伝しているようであるが、彼らは恥ずかしいとも思っていないのである。何も知らないから。
自由、民主主義、人権というものを善とする考え方は大いに賛同できる。しかし、世界の国々の全てがこれらを基本に成り立っているわけではない。日本人はもっと世界を知る必要がある。そして、世界から信頼され尊敬される国を目指すべきである。
立ち上がって、行動しよう、声を上げよう。日本人の大人たちよ、大人になれ!