死は怖いものなのか?

死は怖いものなのか?

1.死はなぜ怖いのだろうか?

死ぬと聞くと怖いことだと感じる。怖いのが普通だと思う。それは本能的なものなのか、子供の頃からの体験や教えられたことなのか。死が怖いから、そして取り返しがつかないことなので、殺人という罪は一番重くなっているのだろう。

死は、怖いものの最上位にあって、病気や破産や不名誉や、あるいは心霊的なことなど、怖いもののトップに君臨している。

にもかかわらず、古今東西、さまざまな小説や歴史書、映画やドラマでも、人は簡単に死んでいく。「立派な最期だった」という表現も時代劇ではよく出てくる。

小説やドラマの中で、人が死んでいくことは、珍しいことではない。死は頻繁に描かれている。ミステリではもちろん、殺されなくても、戦で死ぬこともあり、病に倒れなくても、すべての人はいつか死ぬのだ。

つい最近、ドラマを見ていて、豊臣秀吉の弟である秀長が「私は病があるので長くはない」と言うシーンがあった。自分で死期をおおよそ予想できている。にもかかわらず、平然と生きている。すごいことである。だからと言って、格別に違和感があるわけではない。

昔は、人々は威厳と礼節を崩すことなく、静かに死んでいったような印象がある。これは、勝手な思い込みかもしれなくて、あるいは過去の死に対する価値観が影響しているのかもしれない。何十年かは前になるけれど、激痛を伴う病に侵されて苦しみに悶え苦しむ親を、その家族が看病しながら恐れ戦いていたというドラマのシーンもよくあった。

死は重いし壮絶であると思う。(等しく、「生」も重いということに違いないのだろうけれど・・・)

その一方で、静かに安らかに死んでいく人もいる。苦しみもあっただろうけれども、最後には静かに死んでいく。眠るように死んでいくというのはちょっと良さそうである。

2.死は怖いものから嫌われる存在に変化

死はずっと昔から怖いものだったと思う。怖いから避けようと思っても、誰も決して避けることはできない。なので、人生のある時点で人々は諦めることになる。

「私は、もうすぐ死ぬ」と思った時に、誰かに後を託すとか、死後のことを取り決めたりする。世の中のいろいろな約束が、言葉で交わされていた時代があったわけで、死に際して仲間や家族に語る言葉には、とても重い意味があったと思う。

怖いものから逃げたいのは心理であり、死や病から逃げるための技術がだんだんと発展してきた。現代の医学の発展によって、より多くの人々の命が救われるようになった。とてもすばらしいことだ。

「癌は治る病気です」というメッセージはTVのCMでよくある。それは癌は治って当たり前のような印象へと操作するものであるけれども、いまだに癌で亡くなる人は多い。誰に対して何をアピールするメッセージなのだろうか。

そう、今でも治らない癌は多く、その他の治らない病気も多い。死に至るわけではなくても、私の手指が痛み変形し動かなくなる病気は、症状は進行するけれども治療法はない。いつまでピアノが弾けるのか、不安で一杯だ。

伝染病の撲滅とか、病気を駆逐しようとしてきた歴史があって、治療法と薬剤の発展には人々は大きな恩恵を受けている。

撲滅や駆逐の対象となっているのは、死ではなくて病気であるけれども、病気を駆逐することで、病気による死を回避できるようになるわけだ。病気にかからなくても、高齢になり命が尽きれば死ぬのだけれども、それは天寿全うということで、やはり病気や怪我が死をもたらすという観念は依然として強いと思われる。

病気や怪我を避けようとしている間に、いつのまにか死をも避けようとしている状況になってきた。死は避けられないはずであったが、遺伝子のテロメアを繋ぎ変えて伸ばすのか、若返りの技術もさまざま研究されている。いつか人は死を克服できるかもしれない。

3.死や病の恐れを消し去る方法はあるのか?

若返りや不死の技術はいずれできるかもしれないが、今生きている人にとってはその効用は得られないだろう。それは何十年もずっと先のことだろうし、最初は今の宇宙旅行みたいに超高額であろうから。

そうなると、現実的なのは、宗教である。死や病の恐れなくすることができると、ある宗教は言う。仏教の創始者であるゴータマ仏陀も自分の方法によって死や病の恐怖から解放されるという。観念だけではない。机上の思索だけでは得られないことが人にはあるのだろう。人間のからだの内外、自然との関りとか、いろいろなファクターが絡んでいる。仏陀の哲学は、中国や日本の仏教とは少し異なっているように思われる。

宗教によって、死や病への恐怖をなくすることができる、というと、その宗教によって信じている人以外の人は、何か怪しいのではないかと思ってしまう。「死が怖くない」とか「病も怖くない」というのは、怪しげな宗教に洗脳されているのではないかと思ってしまう現代人はとても多いと思う。むしろそれが大多数であろうと思う。

4.死はそもそも怖いものなのか?

「死や病気は怖いに決まっている。そんなの常識」という考え方はもっともである。死や病が怖いのは当たり前だが、避けられないから、向き合うという方法もある。どう向き合うのか?

「死や病気は怖いに決まっている。そんなの常識。」とするのは現代の日本や欧米の自由な世界に生きている人々の常識であるかもしれない。

でも、そもそも死は本当に怖いのか、それは証明されていない(ですよね?)。確かに、死は怖いと感じるのが大多数だと思う。でもそれは、真実なのか?

怖いとか楽しいとかいうのは、そもそも感覚であって、人それぞれの感じ方がある。感覚的のことであれば、客観的な事実というわけではなくなる。

病気は痛みがあったり、動けなくなったり、そればかりではなくさまざまな苦痛もある。何かをするためには、病気は大きな障害になることもある。

  1. 痛いのは嫌だと思う。では痛みがなく死ねるのだとしたら? それでも怖いですか?
  2. 一人ではなく大勢と一緒に死ぬのだったら? 家族一緒とか、人類全部一緒とか。それは怖いですか?
  3. 死んだ後の家族のことで何も心配がなければ? 後の人はみな大丈夫だと保証されるなら。それは怖いですか?
  4. 死んだ後に自分の個人的な秘密は誰にも知られません。これは安心ですか?

一概には言えないが、死ぬことの恐怖もひとそれぞれで、理由も思いもさまざまなのではないかと思われる。

5.自分の感覚は、自分でコントロールできるのではないか?

感覚や感情を、自分の感覚や感情であっても、簡単にコントロールできるわけではないのだが、自分のことなので自分である程度コントロールできるのではないか? と考えたところで罰は当たらないだろう。

人の気持ちをコントロールするのが難しいのは、周知のことであるが、自分の感情をコントロールすることも難しい。難しいこと至極である。とは言え、何か刺激が無いと、自分で「えいっ」と力を込めて変えられるものでもない。

少なくとも、多くの人は何かの力によって、感情や感覚をコントロールできるのではないかと考えていると思う。それは言葉や思想だけではなく、現代ではさまざまな薬もある。

それが効果的に作用するかどうかにかかわらず、とにかく人は感覚や感情をコントロールできると考えている程度が高い方が、よりコントロールできる、あるいはよりコントロールされやすいという説がある。

6.死をどうやって受け入れればよいのか?

死を簡単に受け入れることは困難であって、一体どうすればよいのだろうかと考える。

ちょっとその話の前に父の話をする。父が亡くなる前に「もうあまり長くないよ。もうすぐ死にそうだよ」と言うことがあった。病気の時だったり、普通に家にいる時だったりする。

そういう時には、家族はつい「何そんな弱気なこと言っているの?」という反応をすることが多い。それは「弱気なことを言っていると、死期が早くなる」という仮説から来ているのだけれども、大きく外れているとは思わないがそれが唯一の真理というわけでもない。

僕もそういうリアクションをしていたのだけれど、父が亡くなってから自分が間違っていたと思うようになった。もっと別のレベルのことを意味していたのではないか。

それは「私はもうすぐ死にそうなんだけど、いろいろと話したいことがあるので、ちょっと話を聞いてくれるかな?」という次元の話であって、その開始に先立つ、いわば枕詞のようなものではないかと思うようになった。

「自分が死んだらこうして欲しい」という話をされると予想するとちょっと身構えてしまうけれども、それも早とちりかもしれなくて、「自分が死ぬ前に、これこれをしたい」という前向きな話であるかもしれない。

だから、弱気と決めつけて相手を否定してしまうことは、とても間違ったことだったと思うようになった。それで話の腰を折ってしまい、その先が続かなくなったかもしれない。

そう思うと、父や母にはもっと話をしてほしかったし、もっといろいろなことを聞きたかった。病気だったり、高齢だったりすると、一緒にいても、多くの言葉のやりとりが少なくなってしまう。言葉を介しての情報交換というか、言葉を通した交流、心のやり取りみたいなものをもっと大切にすれば良かったと今になって強く思う。

7.「死ぬこと」について話すということ

前の話題が完結しないまま、ずるずると別の話に移って大変恐縮であるけれども、多くの人は「死ぬこと」について家族の中で話すことが少ない。

何を言っているかというと、家族の中で、その家族の一員が死ぬということについて、死ぬ当事者を含めて話をするということが無かった。

重い病気であったりすると、結局は本人と死について話すことになるのだけれど、何かどうしても、残念だ無念だというトーンになってしまう。抗がん剤が効かなかったとかなんだとか、医療という枠組みの中での成功や失敗というある種の得点表のようなものが、医療従事者ではない患者にまで影響を及ぼしてしまう。

ダイレクトに言えば、「生き残るとスコアが高く、死ぬとスコアが低い」ということで、すべての人は死んでいくのに、死んでいく最後に医師から最低点を付けられるというのは、なんだか理不尽な感じがする。

自分やあるいは家族が、いつ頃に、どこで、どのようにして、死ぬのか、あるいは死にたいか、そういうことはタブーになってしまっていて、あまり話し合うことが無い。「そんな縁起でもないこと言わないでよ」と言われてしまうことも多い。

裏返してみれば、生きている間に何をしたいのか、何を成し遂げたいのか? それを話し合うということにつながるように思う。

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