無力感にさいなまれる時、脱出の方法について考える

時々突然に、無力感にさいなまれる時がある。そんな無力の時間が訪れると、もう何もできなくなってしまう、ということがある。

病気ということではないけれども、やる気がなくなってしまう瞬間というのがある。それを何とか平易に治めたい。そんなことはできるのだろうか。

突然の無力感

突然強い無力感に襲われることがある。ああ自分は何と無力なのだろうか、と。自己嫌悪にもなる。理由は特に思いつかないし、それは覚えていないのか、気付かなかったのか? 本当に辛かった時には、脳が心の防御のためなのか記憶を封じ込めてしまうこともある。以前にあった。

本当に辛いときには何もできなくなるのも仕方がない。本や漫画を読むとか、映画を見続けるとか、ゲームをするとか、それをできるレベルの時には、どんどんやるしかない。とにかく、一瞬であっても辛いことから気を紛らわせることができるような何かにすがるしかない。それを通り過ぎるともう何もできなくなってしまう。

とにかく、束の間の快楽の手段を探すのが良い。まだ楽しいことがあるうちにそれに没頭することは、生きるために前向きであって、とても大切なことだ。

相対化とズレの増幅

何かで気を紛らわせていても、それはそれで疲れてしまうので、ずっと続けることはできなくて、再び辛いことを思い出しては悩むことになる。

そんな時にも、ちょっとずつ面白おかしい方向に持っていく必要があるのである。不真面目にするのも結構、社会に迷惑をかけない範囲で、ちょっとおどけた感じにすることは良い結果を生むことが多い。

言葉遊びでもいいから、何でもとにかく意味をズラしていくのだ。

そこで、最初のアクションをスタートする。

「現実・状況・成果・能力・原因・・・」という言葉は、すべてマイナスの言葉である。基本的に、憂鬱な時には聞きたくない。そこで、ズラしをするのである。

「曖昧力はありますが、躊躇力とか、憂鬱力とかはまだありません。あるんでしょうかね? でも画数が多すぎるとです!」とか。

「なぜ?」と問うことも、現代社会では基本的に良いこととされているようだが、それは基本はビジネスや学問の用語であって、日常的に人に使うと、それは大体が非難になってしまう。

例えば、「なぜあなたはこのようにしたのですか?」と言うと、ちょっと非難に聞こえる。

質問の多い人は「尋問者」と言って、相手の力を萎えさせることがある。人から力を奪い取ってしまうのは、それは礼儀に反している。そういうことはやりたくない。

「ズラし」をしても周囲の人は、単に不真面目なのだとしか思われない。それでいいのだ。良い人である必要もないし、悪いことさえしなければ大丈夫だ。ちょっと態度が「悪(わる)」な自分を演じてみて、それで刺激を得られるかもしれない。

無力とは

さあ、ダイレクトに「無力」という文字を見てみる。「無力」とか「無力感」という言葉を見てどうだろうか。どのように感じるのだろうか?

「無力」というだけでは、大した問題がないのである。いじめられているわけではない。この2字の漢字「無力」を眺めていても、不思議と暗い印象が全くない。

と、そう考えれば、「さあ、どうだ!」という不思議な力が湧いてくる。
・・・ような気がする。
・・・実際にはまだ力は湧いていない。
・・・そうであったら良いと思う。

そもそも言葉の先頭に「無」と漢字が付いているので文字通り「力は無い」という意味なのである。

無理に力を絞り出そうとしても、疲れるだけであまり効果はない。

あるような、無いようなもの

ちょっと横道に逸れてみる。あまり辛いことを考え続けれられないので、敢えて逸れるのである。

無いけれど有るというのは「ドーナツの穴」に相当する言葉である。実体の無いものに付いている言葉である。実はとても貴重で大切な言葉だと思う。

つまり、「ドーナツには穴がある」と普通に言うけれど、ドーナツの穴だけを取り出して人に見せることができない。そこには何も無いからである。すると「ドーナツの穴というもの自体が、そもそも存在しないではないか」と云う話になる。

僕は、次のような落語のような情景を想像するのが好きである。

「ドーナツには確かに穴がございます」
「では、それをここに並べて見せぃ!」
「恐れながら、それはできかねまする」
「何と! 殿のご下命である! さっさと並べて見せなさい」
「それは、本当には無いのでございます」
「先ほどは、有ると申したではないか!」

こうなってしまうと、平民としては、もう命が危なくなってくるわけでして・・・

ドーナツの穴

ドーナツの穴が存在しないということになると、もちろんドーナツというものには穴が存在しないということになってしまう。真ん中に穴が開いていることがドーナツの定義にあったとしたら、穴がなければそれはドーナツではなくなってしまう。

それでも穴のあるドーナツについて、「ドーナツには穴がある」という表現自体には不自然な感じはしないものである。

穴というのは、実はあるものの特徴として非常に意義のあることなのである。穴の開いた硬貨は世界でもポピュラーである。穴自体が存在感と言っても良い。

このようにしてみると、言葉に表された「有るもの」と「無いもの」というのは、実は違いを示すためのものであって、実態を示すためのものではないことがあるわけである。

無力というのも、言葉としては力が無いわけであるが、「無力感」という感情を表す言葉であって、実際に力があるかどうかということを示す言葉ではない。

やはり心のありようが重要なのである。

見えないものの存在を感じる

見えないものはたくさんあって、見えないものには重要なものがある。物質としては存在しない、存在が測定できないものとしては、まず第一に生命である。

ある小説で、人が死んだ時に人体の質量の変化を精密に測ることで生命の秘密を探ろうとするというシーンがあった。死んだ瞬間にごくわずかに質量が減る、という仮説なのである。これはフィクションであるが、生きている状態と死んでいる状態は確かに違うが、「生命」を単独で取り出せないし、同様に「死」を取り出すこともできない。

「愛」も取り出せない、「心」も取り出せない。それは物質ではないから当然と言うのだろうか。

そして「痛み」も取り出せないし、測定してもらえない。そもそも計測するすべがない。もちろん単位もない。

かつて大嘘新聞で「痛みの単位は”Hanage”、日本発のISO国際規格誕生!」という「ジョークニュース」があった。「長さ1センチの鼻毛を鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛みを 1 hanage と定義」

これはジョークで、今でも痛みは計測されない、つまり科学では絶対量として取り扱えないのである。心の痛みはどうしたら良いのか?

それは無い力、あるいは・・・

心の痛みは、心で感じ取るしかないのである。痛みを感じることのできる力というのは、感性であって科学ではないから、技術でもない。

心の痛みは、実体はあるものの、計測できないために、軽んじられているように思う。他者と繋がるというのは、一体どういうことなのだろう? 言葉の力というものは確かに存在すると思う。でもそれを実体として上手く説明することができない。どうやっても難解な哲学になってしまうのだ。

それにしても、映画「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」の「ゼロになるからだ」という歌詞が心を打つのはなぜだろうか。

どこかで突き抜ける

どういう力があったり無かったりしても、人はそれぞれちゃんと生きているわけで生きる力はあるはずだ。何が無くて、何が有るのか。それは分からない。

考え方が単純な人はいろいろな道筋も簡単であるが、考えが複雑だと自分で思う人が実際にはそれほど複雑なことを考えているわけでもない。一般論だけれど。

とにかく、あきらめるわけではなくても、辛いことを考え続けるのは良く無いように思う、一方で、考えないではいられないというのも現実である。

絶対に解けそうになかったパズルが、ふっと出来てしまうことがある。知恵の輪のようなパズルは、几帳面に図面を書いたらもしかしたら溶けるかもしれないけれども、やはり、考えながらあっちやこっちへひねったり回したりするわけである。

安直な方法というものは無いのではないかと思う。楽をしようとすることは、遠回りになることもある。他人の責任に転嫁しようとすると何事も解決しない。

あるのか、ないのか。力が無いから無力というのだが、それについて深く考えていると、その無いものに対しての思考を積み重ねることになる。そこに力がなくても、無力であっても、それについて考えて悩むことになる。

考え続けること、考え続けている場所に、そしてその周辺やつながっていくことにヒントがある。迷路にも必ず穴があって、外に出られる。外に出るためには動き続けないといけないのだ。

具体的じゃなくて申し訳ないのであるが、考えたり、悩んだりすることは、意味があって、つまり効果もあって、それこそが、脱出への力なのじゃないかなあと思えるのである。

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