カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』に思う日本占領と戦後

カズオ・イシグロ著、小野寺健訳『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫)について書きたいと思うが、これは感想でも書評でもない。

この小説を読んでいて、呼び覚まされたことがあった。それは今までとは全く異なる新しい感覚だったので、書いておきたい。

時代が移り変わる時・・・

一番気になったのは、緒方さんと緒方さんの教え子である松田さんとのやりとり、そしてその後の悦子さんの言葉がとても新鮮だったのだ。一般的な読み方ではなかったのかもしれないが、僕には大変に印象的だった。そしていろいろなことを考えさせられた。

緒方さんは、日本の戦前の象徴であり軍国主義的な「神の国」を支える教育を施す人で、松田さんは若い世代で、戦後には晴れて共産党なのである。

時代が大きく変わっていく中で、様々な価値観にも浮いたり沈んだりがあって、急速でものすごく大きな変化があった。ヨーロッパもアジアも大きく変わった。

第2次世界大戦では、世界中が変わったかもしれない。その中でもアメリカ大陸は大きな戦火を受けなかった。

次の韓国やベトナムを踏み台にして、アメリカとロシアという強国が東西を代表して冷戦を踏ん張れたのも、この時期の国力の損失が少なかったからとする考える方もある。

正義とは何なのか?

この時代を考える時に多くの人が陥ってしまいがちなのは、戯画化された画一的な枠にはめてしまうことだ。大日本帝国を賛美する軍国主義的な人々がいて、反対勢力として共産党員が対立している構図であり、その中間にはいわゆる一般大衆がいるのである。

このような構図は、抽象化しすぎているのかもしれない。自由で民主主義的な人々は一体どこに存在したのだろうか。投獄された人々もいたが、良識を持っていてもそれを潜めていた人たちがいる。それでも良識の絶対量が足りなかったのかもしれない。思ったことがそのまま言える社会であったのなら、日本ももっと違う在り方になったはずだ。

そして、軍国主義者であろうと反戦の立場であろうと、愛国者たりうることは可能だし、あるいは優しいお父さんお母さんであることも可能なのであり、生身の人間には何か一つのイデオロギーだけで100%満たされるということはありえない。

さて、一体何が正しいことなのか。

戦後は本当に良くなったのか

友人のお祖父さんが戦前に校長先生だったからといって、少しばかり厳格で頭の堅い感じはするかもしれないが、それでも悪人を連想することはなかった。社会倫理や道徳は、確固とした実体があって、世の中が効率的に動くように機能していた。

松田は緒方の生き方を否定する論文を書き、緒方さんはそれに納得がいかず謝罪して欲しいと思っている。

要点だけ、おおよその流れを書く。原作とは異なるところもある。

緒方「重夫くん、正直に言ってくれ。きみは自分が書いたことを一言でも信じているのか? なぜあんなことを書いたのか説明してくれないか?」

松田「今じゃ、何もかも変わったんです。そしていまだに変わり続けています。緒方さんが…偉かった頃とは違うんです。緒方さんの時代には、日本の子供たちは、実に危険な嘘を教えられていたんです」

緒方「確かに戦争には負けたけれども。ただ、日本の伝統を支え、それを伝えていくことは、立派なことだとは思わないのか?」

松田「先生が誠実に努力なさったことを疑っているわけではないんです。ただ努力の方向が結果的に間違っていた」

緒方「教師としての職に就けるように推薦もしたじゃないか」

松田「それについては感謝していますが、それとこれとは別なんです。かつての教育は日本を戦争に導くものだった。あの頃は将来が読める人はほとんどいなかった。読めた人はそういう思想を口にしたために投獄されたんですから。でも今ではそういう人たちも自由になりました。そういう人たちが我々に新しい夜明けを教えてくれるんです」

緒方「新しい夜明け? 何を言ってるんだ」

これから少しして松田さんは仕事へ行く時間が迫ってきて、会話は終了するのだが、その後に悦子さんが言う。決然と言い切る、といった感じだ。

悦子「何てくだらないことを言うんでしょう。まったく見下げた話ですわ。お義父さま、気になさらない方がいいですよ」

このさりげないひとこと、それでも強い意志のある言葉が、日本人の小説からはなかなか出てこない。主人公の言葉として小説の中で語られるのは極めて珍しいことであろうと思う。日本人の小説では、愛国主義に賛同することが個人主義に反するということになっているので、主人公はひたすら悩み逡巡するのである。

しかし、そんなことは一切関係ない。やはりこの小説はイギリス人が書いたものだと改めて強く思った。ああ、これはindividualismなのだな思ったのだ。悦子さんは普通の日本人とは少し違うようだ。イギリス人なのだ。なぜかな?

自由とは本当に価値のあることなのか?

さて、悦子さんのセリフは、ヨーロッパの感覚からすれば何ら不思議なものではない。ヨーロッパ的な雰囲気を持って、この悦子さんの言葉は軽いトーンで発せられた。

そして、そのすぐ後のシーンでは、戦前の学校校長であった緒方さんと、長崎の偉い人だった藤原さんの奥さんが、初対面ながら互いを尊重しながら礼を尽くして相対するさまが実に丁寧に描かれるのである。悦子さんの信条が全面的に肯定されているかのようなのだ。

その後の日本ではさらに「自由」がもてはやされていった。やりたい放題になってしまうのをどこで歯止めがかけられるのか。分からないままだ。自由を売り込んできたのは、アメリカである。そしてアメリカに自由の女神を贈ったのはフランスである。

もし、悦子さんがアメリカ人か、フランス人だったら、全面的に松田さんの見方をしていたのではないか。

敗戦国へのペナルティ

戦争の悲惨を絶対忘れてはいけないと、両親から教わった。戦争に突入したのは日本のエゴだったと、日本が悪かったのだと。でもアメリカが温情政策をとったので日本もお取り潰しにならなくて良かった、と教わってきた。今から見れば、アメリカに良いように情報は操作され、高度に思想統制されてきたわけだ。

そのアメリカの占領政策のコンセプトに今なお、日本人の多くが囚われているのは、これもまた悲しいことである。日本の戦後の学校教育は、アメリカの日本占領政策の延長上にデザインされている。

戦争は悪だ。戦争をしない国家を作ろう。日本人はこういうユートピアを好むだろうから。だから日本人には戦争をしない国家というコンセプト=憲法を与えておこう。この憲法を作らせたアメリカは世界一の強力な軍隊を持っている。

実際に日本が戦争に突入した経緯は複雑である。日本はなぜ戦争を回避できなかったのか。日本は満州建国以後は、欧米の経済的制裁を受けていて、とりわけアメリカからの強力な経済制裁を受けたのだ。

大量破壊兵器による無差別殺人

戦前の日本は、戦争に導くための教育をしてきたように言われるようであるが、その時代のヨーロッパ諸国は植民地としてアジアやアフリカを軍事力で占領して支配していた。時代の常識からするとどうなるのだろう。欧米は植民地を持っても良いが、アジアの国が植民地を持つとはけしからん、という戒律を犯したため日本は制裁されたのだろうか。

戦前、日本への石油の100%輸出禁止という厳しい制裁が課せられた。日本に少しでも助力する国があれば、その国に対してもアメリカは同様の制裁を加えると宣言した。

日本の宣戦布告を聞いていなかったふりをして行った数々の偽装工作。戦争終盤で2度にわたる一般市民への核兵器によるの無差別大量殺人。

とにかく戦争の開始から、終結に至るまで、アメリカはフェアじゃなかった。このことは忘れてはならないと思う。

神の国

緒方さんは、立派な人だったはずだと思う。戦前であっても。戦前が全て悪だったはずはない。時代精神というものがある。その時代の価値観で良い行いをしようと努力していた人々を現代の全く異なる視点で評価するのは潔くない。

第2次世界大戦前の日本が封建的だとして、批判されるならば、それ以前の徳川時代をなぜもっと批判しないのか。

「神の国とはおこがましい」ということでGHQアメリカ指導で、自由と民主ということが注入されたが、日本は帝国主義だからではなくて、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、とどの時代を見ても、神道と仏教の国だったのではないのか。

イギリス、フランス、アメリカは今も自らを「神の国」として教育している。神に守られた国ということで、エゴイスティックにも聞こえる。そう問えば、人は神のもとでは平等だと答えるのである。巧みなことである。

悦子さんが、松田さんのことを憤慨して、何であんなことが言えるんだろう、とんでもないと言うのだが、それが僕には一番新鮮に映った。

恩を受けたのであれば終生恩義に報いるように生きて行くことは、人の道であって、人の道を守るということが日本の伝統であったのだと思う。

「神の国」というのが天皇家の国家という意味であれば賛同できないけれども、自然を恐れ崇め人の道を求める生き方が「神の国」だとすればそれは全く否定されるべきものではない。

武士道を貶めること

ここに、とても新しい発想の転換があって、日本人は当たり前に思っていることが、ヨーロッパから見ると実は不思議に見えることがあり、それは日本が自国の文化と伝統を守ることをなぜ日本はおろそかにしているのかということになる。

ヨーロッパの児童文学にも武勇伝というものがたくさんあって、「〇〇の勲」(「いさおし」と読む)という詩が、物語の中に挿入されていることがよくある。戦いを讃える詩である。

武士の戦いは崇高なものとされているのだが、日本では武士道がもう完全に地に落ちているようであるのが悲しいことである。これもアメリカが誘導したことなのか? プライドのために命をかけるということはもう日本では見ることができない。

とにもかくにも、日本の立ち位置がとても不安定に見えて来るのである。

このイギリス小説についても少しだけ感想を

一読して、イギリスに渡ってからのことにはあまり関心が湧かなかった。娘との会話もあまりすーっと入って来ない。結局、古いこと、日本のことが引っかかっていて、それが解決されないために、悦子さんはずーっと解放されないのではないか。亡くなった娘の景子さんのことも気持ちの整理はつきそうにない。

作者が日本のことをよく知らないままに夏目漱石とかを読んだイメージで試しに書いてみた、という感じの小説に思えた。イギリスにおける遠い日本のイメージは、あまりにもイギリスとは接点がないので、最後のシーンで何とかイギリスとの接点を作り上げたかのような薄い印象に見えてしまう。

一体どのような必要があって、最後のシーンがあるのか。日本人とイギリス人との差を際立たせたかったのか。それにしては、晩年の悦子さんには異なる文化に渡ってきた摩擦や抵抗感というものが全くない。考えてもどこにも答えがない。不条理の世界に追い込まれる。カフカを読んでいるみたいにぐったりと疲れてしまう。

文章から何やら戦前の昭和の日本人作家が想起されるのは、小野寺健氏の訳がその時代の雰囲気でとても綺麗に書かれているからだろう。戦後の日本社会の価値観の変化というのは、日本人が心に恥を抱いて特に気にしていることではあっても、ヨーロッパの人々からするとそこはあまり重要ではないに違いない。彼らの思いやりはあるけれども、そこには何の思いもない。これはイギリスの小説であるので、イギリス人の感覚で話は進んでいくのである。

あの昔の日本での出来事は何だったのか。佐知子さんと万里子さんのことも曖昧な記憶と景色の中にくすんでいる。何もかもがくすんでいて、判断ができない。前後関係も善悪も、何よりも自分の気持ちが良いのか悪いのか、それすらもよく分からなくなってくる。

 


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