最近の奇妙な言葉「バエる」「おしめん」

最近、ラジオで聞いた、ちょっと変な言い回しを書いてみる。ラジオでは素人を含む多くの人がそのまま生で話すことが多いので面白い言葉を聞くことができる。

ただ、間違えているのか、それとも新しい言葉なのか?

バエる

「こんなアングルのショットは、もう間違いなく、バエると思いますよ。いっぱい『いいね!』来ますよ!」

って、これは「インスタ映え」のことか?

単に元の「映える(はえる)」という言葉を使っているのではなく、あくまでインスタ映えの省略形なのだと解釈すれば、成り立つ表現ではある。

「インスタ映え」という言葉が流行りだして間もない頃は、NHKではわざわざ「SNS映え」と読み替えていて、意味は分かるが印象が良くなかった。それよりはずっと良い。

(※2018/11/21に追記しているのであるが、これは冗談ではなくて、使用されるケースが増えてきているようだ。元の「映える」という言葉を知らない人は、「ばえる」という言葉があるかのように思ってしまうらしい。知らないで使う人もいれば、知っていてわざと使う、差異化したい人たちもあるようだ。)

よりどりみどり

「すごい緑が綺麗なんです。もうよりどりみどりって感じで・・・」
選り取り見取り(よりどりみどり)のみどりが「緑」と思っているのか。

「いろいろと種類があり、好き勝手に選べること」が本来の意味である。

単なる洒落だったのか、あるいはギャグだったのか。やっぱりダジャレだったんだろう。

言葉を知っている人であっても、人目を引こうとしてだか、ネットやラジオ等で、このような言葉遊びをすることがある。まあ、よくあるのだ。普段、そんなことを考えていなかったのに、突然に生放送で言ってしまったなんてこともあるのかもしれない。

今日の私はとても優しいので、ミスも美徳、無知だって新しい行動の「芽」と考えている。純粋な心に対しては批判をしないのが私の信条であるということだ。

させていただく

つい先日のこと、「お盆にお休みをいただきまして、実家に帰らせていただいたんですけれど・・・」と話しているのを聞いた。

ここで「させていただく」を使うとちょっと居心地が悪い。

昔のドラマなどで、妻が夫の不行跡(浮気など)に腹を立てて「実家に帰らせていただきます」という決まり文句があった。ある年代以上の人は、この言葉を聞くと、すぐにこんな連想が湧き起こる。

そうでなくても、この「させていただく」の使い方はあまりよろしくない。最近の芸能人が何でもかでも「させていただく」表現を使うので、世間一般でこうした言い回しが多用されているけれども、間違った用法が多いようだ。

「させていただく」という表現には、丁寧を強調するというよりは、その逆に、自分の主張を押し通しているような、「周囲はどうであれ私はこうする」というニュアンスに聞こえる。

もしかすると実はそれが本当かもしれないのだが。

無意識のうちに現代人の本心がここに表れていて、建前としては「丁寧に言いたい」という表現なのだけれど、本音では「とにかく私はこうする」という強い決意を表しているように感じられるのである。実は、ちょっと怖いことなのである。

最近の人たちは、こっちの「させていただく」を使う率が高かくなったように思う。「エゴ」の強い「させていただく」なので、私はこれを「エゴさせ」とこっそりと呼んでいるのだ。

エゴサ

先ほどの「エゴさせ」ではない。

検索エンジンで自分のtwitterのハンドルネームとかブログとかを検索することをエゴサーチ(略してエゴサ)というのだが、これは英語でegosearchingという。

「あんたがたどこさ?」「エゴさ」なんて感じであると楽しいのだが、これは、英語だったんだな。なんだか、ちょっと残念な気がする。何だかとても日本っぽい感じだったのだ。

日本では政治家と学者だけでなくて、ITの世界にも、民間の企業にも、何事も英語で表現したがる人々がいる。

「自己検索」だと「ジコケンサク」で6文字なので、「エゴサ」は効率が良いし、紛らわしい言葉もない。発音のインパクトもある。

つい最近、ラジオで「僕のオピニオン・・・」と話しているのを聞いて驚いた。それは「意見」(イケン=3文字)で良くないのか?

それならば、いっそのこと、もっと省略して「オピ」と言うことだってできる。
「まあ、これは俺のオピだけどさ・・・」

ヒユしてる?

「比喩で表現している」ということだ。これは単なる日本語能力と言ってしまうと身も蓋もなくて、それでも新しい語感とか新奇性のセンスに関わることだろうと思う。比喩は「する」をつけて動詞にすることのできない名詞である。
「実はこの歌詞って、夏を比喩してるのかも?」

意味はわかる。何となく新しくていいんじゃないかと思った。「そんな比喩り方すんなよ!」なんて、使うのである。

昭和の時代には、「ひよる」という言葉があって、日和見(ひよりみ)主義から「何日和ってんだよ」なんていう言葉があった。今変換したら普通に漢字変換できた。もちろん昭和の当時には、文法的には誤りだったが、現代ではステータスを得たということなのだ。

おしめん、におし

なぜこのようなアレンジが必要だったのか。「イチオシのメンバー」を「おしめん」にする必要があったのか、と問うてはいけないのだ。言葉は、例外なく必要があって作られるのである。

「おし」は推薦する意味の「推す」の漢字を当てて、「推し」と表す。

イチオシが「おしめん」になるのであるが、2番目は「におし」となる。これは「おしめん」が複数いる場合だそうで、その時の1番目は「神推し」というとのことである。

「神」を多用することに何だかとても強い違和感がある。これは、最近でもないし、奇妙というよりは不快感に近いかもしれない。

「神ほにゃらら」と言って、すごい「ほにゃらら」のことを言う。どうしても納得できない。それが本当にすごいことを言っているのならまだしも、「神」が付いているものに対して、ほとんど共感することができない。「神アプリ」とかが神であったことはない。

発話者の語感とその対象としている物とを比較して、神と表現したレベルを察することはできる。その人が、一番大好きなもの、一番大好きな人を指して、もう「神」と言ってしまうケースがあって、それは神ではないだろうと思うが、気持ちは分からないではない。

いや、でもやっぱり普通のものや人は神ではない。だから、本当に、神が普通の人には感じられなくなってしまっているのかもしれない、と思って大変に不安になる。

本当に神に会った時にはどうするつもりなのか? 普段はつけていない「様」をつけて、「神様」と呼ぶのであろうか。それだけで敬意を表現できるのか?

「行い」が良ければ、もしかしたら、それで大丈夫かもしれない。

 


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