両親のこと(2) 犬のジュリー

東京の中野の家に住んでいた頃に、迷い犬があった。

僕がフォルスクワーゲン・ビートルに乗っていて、家のすぐ近くに車を止めたら、近寄ってきた。車の中に入り込んできて離れなくなってしまったのだ。

僕は、動物に好かれることがあって、鳥とか猫とかがすり寄ってきてしばらく離れないようなことが時々あるので、気にもとめていなかったのだったが、一緒にいた大学の友達が、なんでこんな突然に迷いこんできた犬に愛されてんのか、と言う。

もう夜の10時くらいで、夏の終わりというのか、少し涼しくなってきた頃だったように思う。

その犬は、雑種の犬で、サイズとしては柴犬よりもちょっと大きいくらいの犬であった。かわいい犬であるし、僕を好いてくれていることでもあるし、家に連れ帰って、しばらく面倒を見ることにした。

面倒をみると言っても、犬を飼うことは簡単ではなくて、本当にはいろいろと犬のためにも周囲の人間のためにも配慮がいることなのであるが、家から50mのところで車に飛び込んできて、去っていかないので、これはもう仕方ない。

東京のど真ん中であるので、野生の犬がいるはずも無く、誰かが飼っていた犬が迷子になったり、捨てられたりしたのであろう。とても人懐こい目をしていて、とても優しい犬である。助けを求めてきていることは明らかなので、しばらく家で預かることにした。

若い女子の犬で、とりあえず名前をジュリーと付けた。これは母が勝手に付けたのだ。「えっ? なんでそんなすぐにママが勝手に名前を付けちゃうの?」と問いたりければ、答えて曰く、「直感よ」と母。

***

犬が来た日は夜だったのだが、翌朝になったら、母が「妊娠してる」という。なんと驚いたことか。もちろん妊娠したのは母ではなくて、ジュリーのことである。

僕は半信半疑だったので、ジュリーを車に乗せて、犬をたくさん飼っている友人宅に連れて行った。すると、友人のお母さんはそんな兆候は全然ないと言う。今までに犬を通算で100匹くらい育てているのでそういうことは必ずすぐに分かるというのだ。そうだとすると、母が言ったジュリー妊娠説はあまり確かではないかなあと思っていた。母は結構自信たっぷりに言うけれどもそうでないこともよくある。

それから僕は、にわかに日曜大工で犬小屋を作った。壁があってその上に三角の屋根が付いているのが僕がイメージする普通の犬小屋であったのだが、そうすると手数が多いので、大きい三角の屋根だけを作って、そこに入口の大きな穴を開ければテント型の小屋ができるではないか、ということでそのような建築をしてみた。ジュリーは、自分の家であるということは理解したようで、その中に入って休むことをするようになった。母は、これじゃちょっと狭いわよ、と言う。

最初は、家の敷地の中に飼っていて、家にいるときは首輪などしていなかったのだけれど、塀とかを越えて出かけて行ってしまうことが分かって、近所の人からご指摘を受けた。放し飼いはいけませんよ、と言われた。確かにその通りだ。玄関脇の駐車場の柵の間隔が広いので、簡単にくぐり抜けられてしまうのである。

そうこうするうちに、ジュリーは夜中になると、クンクンと悲しい鳴き声を出すようになった。一体どうしたのだろう。ドッグフードはあまり食べない。むしろ、煮干しとか好きなようである。家の外から窓ガラスを引っ掻いて、夜中に泣くのである。何だかかわいそうな感じで、母はお腹が空いているのよ、と言う。お腹に赤ちゃんができるとお腹が空くのよ。とりあえず、ご飯も魚も肉も与えると満足がいくようである。

しばらくは落ち着いて過ごしていた。ジュリーが来てから3か月くらいした頃に、首輪を取り外してクリーニングしていたら、革ベルトの裏側に何やら引っ掻き傷があるのに気がついた。ジグザグの傷かと思っていたが、よく見ると釘のようなもので書いた数字のように見える。

そして、それは電話番号かもしれないと思い、電話をしてみた。すると、飼い主の家につながった。ずっと探していたのだという。ほんの3km程度の距離にあるお宅であった。電話の後、それはもう本当にすぐに迎えに来た。それはよく分かる。ジュリーはその家ではとても大切にされていたということだ。

こちらとしては、心の準備もなく、3か月一緒に暮らした余韻を感じることもなく一瞬のうちに帰って行った。実にあっけないことである。昭和的な語感で言うと、ウチがお妾さんで、ちょっとだけウチにいたけれど、結局旦那は本宅に帰ってしまったのである。

それからしばらくして、元の飼い主さんから、ジュリーが子供を産んだということを知らせてくれた。忘れていたが、やはり妊娠していたのだった。本名はジュリーではなくて、ラッキーだったそうである。もしかして、生まれた子供を育ててくれませんか、というのかと思ったが、親戚の間でもう行き先は決まっているとのことだった。そう思ってはいけないのだけれど、ちょっと寂しいような気になった。

僕の家の斜め向かいの家の犬の名前がラッキーと言って、こっちのラッキーとちょっとよく似たタイプで、サイズもぴったりだ。もしかすると、ジュリーは迷っている時に、その家で「ラッキー」と呼ばれている犬のいるところに行ったら、そこにはオスの「ラッキー」がいたので、そこで子供ができちゃったのかもしれない。

今となっては他愛のないことであるが、それでもこのことはとても大切な思い出である。

それにしても、なんで母は、犬が妊娠しているのが分かったのかな。

 

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