懐かしいJALカバン、そして僕のイギリス・フランス学生旅行

北海道の新千歳空港にJALの展示コーナーがあって、昭和の頃にJALでもらったバッグが陳列してあった。飛行機に乗ることの嬉しい感じが、思い出される。当時はバッグとは言わずに、カバンと言っていた。

懐かしいJALカバン

まだ若かった僕は、この青い方のJALカバンを持って国内と言わず、海外にも旅行に行ったことがある。旅先で少し大きなカバンを買って、生活用品とかを買い足して行ったのである。

このカバンは、札幌の展示室のプレートには「フライトバック」と書いてある。もちろん、バックではなくて、バッグのことである。bagとbackでは大違いだ。

当時のJALの制服も展示されている。

何だか、今見ると不思議なことに、どれも馴染みがない感じがする。ミニスカートだけがちょっと浮いているようだ。

左から右に新しくなっている。しかし、正直なところ、左側と右側のどちらが新しいのか、にわかには判断しがたい。実は戦後の日本のセンスというのはあまり変わっていないということの裏返しであろうと思われる。

JALカバンで本当にそのまま海外旅行へ

さて、この青いほうのカバンは、元々は父からもらったものだったのだが、いつの間にか傷んできて捨ててしまった。それでも、何と大学生の時には、このカバン一つを肩に掛けて、海外旅行に出掛けたのであった。現地調達とか言って出かけたのだ。「行き先は先進国だから何も問題ないよ」と軽い気持ちだった。

家族も友人も誰も止める人はいなかった。バイリンギャルが珍しい時代だったし、海外からの情報も歪められたものばかりだった。テレビから入ってくる面白情報以外には、本当のところはよく分からなかった。

それほど大きなカバンではなくて、本や雑誌にノートや手帳、財布、キャンディ、小型のカメラなどを入れたらもう一杯という感じである。にもかかわらず、このバッグだけで2週間のヨーロッパ旅行に出掛けて行ったのは、かなり無謀なことでもあった。

さらに言うと着て行ったコートも襟が痛んでいて、そろそろ買い換えなければならない感じだったのである。着いた日はホテルを探して、買い物である。日用品からシャツや靴下まで買いに回るのである。

ヨーロッパではサイズが合わなくて

ヨーロッパに最初に降り立ったのはイギリスのロンドンのガトウィック空港であった。空港を降りたら両替をして、鉄道に乗って、ロンドン中心地に出た。何だか普通の電車であった。ロンドン市内に来てから、衣類なども探すが、シャツはデパートに行っても合うものがなくて、無言で「あっち!」と指さされる。するとそこには、”Teenage”と書いてある。子供服である。

コートも古いものを捨てて買い換えようと思って、立派な店に入るけれども、最初に入った高級店では売ってくれなかった。お金の問題ではなく、僕の格好がみすぼらしかったのだろう。コートの襟が擦り切れてたりしたからだろう。お金の問題ではないのだ。何を言っても、そういうものは無いと言う。そういうサイズは無いとか、そういうデザインのものは無いとか言う。

ほらここにあるではないか、と言っても無駄で、これは展示用のディスプレイだというか、もう既に予約が入っているという。「とある紳士からの予約が入っている」と言うのは、お前は紳士ではないので、その予約枠には入っていないと言うことなのだ。英語のちゃんと話せない汚いアジア人としか見られなかった。

それは、試着するに十分な品位がないということであったのだ。高級品を買う客は、擦り切れたコートを着て買い物に訪れたりはしないのである。完全に見下された感じで出口を指差されて退場した。

ロンドンからパリへ行く

そんなこともあったが、気を持ち直して、順々に買い物をしてだんだんとまともな人間の身なりになっていった。

7日間くらいしてから、ある夜にロンドンのヴィクトリアステーションを出発して、夜中にドーバー、真夜中にバスのままフェリーに乗り込み、未明にフランスのカレーに上陸して、またバスで走る。

少しずつ明るくなってくると、フランスの世界が見えてきた。暗くて冷たく寒い3月のロンドンから、ドーバー海峡を渡ってフランスに着いた時には、ああ何と明るい国だろうと思ったのだった。灰色からベージュに変わったのは、それは土の色だったのか。

早朝にパリ郊外の小さな駅に降ろされて、イギリス・ポンドをフランス・フランに両替していなかったことに気づいた。こんな小さな駅に着くとは思っていなかった。これはまずいと切実に思ったが、朝の6時前には両替屋も空いていなかった。どうやって地下鉄に乗ったのかは覚えていないが、その駅では切符を改札機に通す人はめったにいなくて、ゲートを蹴飛ばして通過していく人ばかりだった。当時のパリはとても寛容な都市で、何とか朝の7時頃に到着することができた。

スケーター・ミドリ

そこからはまた、ちょうどフィギュアスケート世界大会などがあり、ホテルは一軒も空きがなくて、半日歩き通すことになった。観光案内所ではすべて満室という札が出て営業を停止しているので歩いて探すしかなかったのだ。

意訳すると「せっかく日本から来たのに、しかも日本のミドリがすごいスケーティングで優勝候補ってことで話題を独占してるっていうのに、もうここパリのホテルはすべて満室で、でもない部屋はやっぱりないので、まあ他を探してもないとは思うけど、何てったって、空室があったら案内所の俺がホラって教えてあげるわけだし、まあそうでないわけだから、相当に大変な状況なわけだよね。僕もキュートなミドリを応援してるし、もちろん日本から来た学生の君もそうだよね? お互い美を求めスポーツも愛する人同士だよね。ってわけで、また来てね、さよなら!」ということになる。

フランス語と日本語を双方が全く解さないままで、これだけのことをしっかりと伝えてくるフランス人のコミュニケーション能力というのは、当時の僕はさっぱり気付かなかったけれど、ものすごい実力があったということなんだな。

ドーバー海峡

パリからイギリスへの帰り道は、バスと水中翼船のセットで船の中では船酔いで完全につぶれたのであるが、ジェットコースターのように揺れまくる船の中でトイレに立つたびに周囲のイギリス人たちが、さも楽しいものでも見たようにニコニコして「お前、酔ったのか? 大丈夫か?」と声をかけてくれる。風は強くて、波も高かった。船は、まっすぐ歩けるような尋常な揺れではなくて、周囲の人も手を差し伸べて支えてくれる。

ドーバー海峡で体重を減らしてから、イギリスに帰ったのだ。1989年のことであった。

コンビーフの缶詰

そういえば、最後にイギリスから日本に帰る時に、保安検査場で荷物がピーピーと鳴った。周囲の人々はほとんどは西欧系らしき人たちで、謎のアジア人がX線検査でピーピー鳴らしているのを訝る目つきになった。

何だろうと思って、中を見るとショルダーバッグ(これもロンドンで買った大きめのもの)の中にコンビーフの缶が入っていた。ああ、コンビーフだと思って取り出したら、周囲の人たちから安堵の笑い声が起こった。

イギリス人は、人とはあまり目を合わさず、(おばちゃんを除くと)みな本当に寡黙で、じーっと静かなのだけれども、実はよく笑うんだな。

30年経って初めて思うけれど、彼らは本当に怪しんで警戒していたというよりは、何かこの若いやつは面白いことやってくれるんだろうな、と注視していたのかもしれないと思うようになった。長い列に並んでいて、多くの人が退屈しているのである。

(2018年10月25日作成、2018年12月18日更新)

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