なぜ勉強しないといけないのか
勉強する目的を考える。
一番の目的は、権力に騙されないため
知識がないと「原発は安全です」とか、「世界的にもトップレベルの科学者が安全を保証しています」などと言われて、ころっと騙されてしまう。ダマされたくはない。
原発の燃料であるウランや原発の廃棄物として大量に発生するプルトニウムは、どうにも処理のしようがない。一旦ウランを濃縮してしまったら、もうどうしようもない。濃縮ウランを薄めて自然に戻す方法は無いのだ。このような基本的な知識は必要だ。
そして、「絶対安全」なんてものは世の中に存在しない、ということもちょっと考えればわかることである。ミスをしない人間も、故障しない機械も存在しないのだから。
多くの人が知っていれば、その声は大きな力になる。だから、多くの人が知識を持って考える力が得られるようにするために学校は存在する。
そして、権力に騙されないためには、基本的なロジック、社会の仕組み、モノの特性、考える力、芸術、倫理感が必要となる。
そのための訓練をして、それを継続していくのが勉強だ。勉強する基礎を教わって、その習慣付けをするのが学校である。学校もバイアスがかかっているから、学校以外からの知識習得や交流も重要である。
基本的なロジック
国語はまず重要である。言葉を正確に理解することは、何よりも身を守るために必要なことだ。うまい言葉に引っかからないように気をつけないといけない。ロジック=論理学なのである。
仮に引っ掛ける側に回ったとしても、言葉は重要なツールである。
英語など外国語をやる意味は、国語と外国語の曖昧さを理解して、意味の違いを知ることにもなるし、それもコミュニケーションの力を強くしてくれる。
コミュニケーションとは、基本がロジックである。正確に用件を伝える力、文章や話し手の正しい意図を読み取る力を養うことが重要だ。気持ちや情感にこだわるのはその後でも良い。言語で学ぶ重要なことは論理学なのである。
社会の仕組み
理科系・文化系という区分ももう古いのかもしれない。二分類を続けているのは日本だけとも言う。
人文科学系科目としては、法律、経済、社会などがあり、歴史や地理などもあるわけだが、つまるところ、これらはみな政治の結果引き起こされた特定の現象なのである。
権力者たちがあっちやこっちで勝手気ままに暴れてきた結果が、世界に様々な物理的・心理的・社会的な影響を及ぼした。何度も国境線を書き換えてきた。戦争の被害は街や景観を破壊し、人々は死に、生き残った人の心には傷を残す。民族間の怒りや不満も燃え続けている。
戦争や人権活動を平凡に平板に羅列してしまっては、感覚を鈍らされてしまう。戦争が何年に始まって何年に終わったという事実よりも、誰と誰が戦争をして何人が死んだのか、負傷したのかということの方が重要に思える。そして、なぜ戦争が起こったのか。なぜ防げなかったのか。
ただ単純に暗記するのでは、感覚を鈍らせてしまい、それでは結果的に、権力者が民衆をコントロールするためのツールに堕ちてしまう。
世界で起こっている多くの問題には、正解がない。あるいは正解はあっても実現できない。実現できる方法を考えるのが重要なのである。問題がどれだけ難しくても、考えないことには答えは得られない。
モノの特性
物理や化学も、実際に存在する世界、つまり物質に対する知識であり、センスとして不可欠だ。精密な実験をしても、結論は理論に合わせて解釈される。本当の実態であるとは限らない。現代で最も正しいと思われる理論で解釈された理論値によって、世の中は動いている。
環境、気候、医療、食品、教育、経済、政治、国家、人種、イデオロギー、芸術、文学、音楽、動植物、などなど、世の中の様々なことが複雑に絡み合って、地球上の世界を作っている。
科学や技術的な発明などが、人々の生活に生かされる一方で、国家や権力に取り込まれて使われてしまうこともある。原子力もロケットも。金融市場もメディアももはや平等なものではなくなってきた。世界の富はますます不平等に分配されていく。
ITが世界に深く浸透した結果、旧来の理系と文系という枠組みでは収まらなくなってきた。新しい技術もどんどんと登場する。そういう時も、冷静に情報を収集して理解できるようにありたい。
考える力
危ないこと、人々のためにならないことであっても、ある権力を持つ人が利益を得るために実行しようとすると、なかなか止められない。
原発は止められない。日本の国土全体を自由気ままに演習場にしてしまうアメリカ軍にも何も言えない。
アメリカの属国となるのが日本の安全ために良いのだ、などということは、ありえない馬鹿げたことだ。国家は独立した権限を持って、他国と対等に付き合うべきである。そろそろ悪い習慣を断ち切った方が良い。
そもそも善悪の観念が一致しないと、国家間での協調に支障をきたす。善悪や倫理を考えるのは重要だ。長い哲学の歴史がある。今も善悪の統一理論はないけれども、考え続けることで現実的な解決方法が見つかるかもしれない。
世界を作っていくための、世界をより良く運営していくために必要なことが勉強であって、そのビギナーコースを小学校や中学校、高校でやっている。
年齢を重ねるとだんだんと勉強は高度になってきて、専門に分かれて進んで行く。そうするとあるところで、専門性の壁ができて、言葉が通じなくなってしまう。底辺のところでジャンルにまたがって理解できる人が必要だ。
だから、子供の頃からの勉強というものが、世界を良くするために本当に必要であるということが、とても強く実感できる。本当にそこにつながっているのである。どう言ったら、実感してもらえるだろうか。
芸術
言葉は、論理であると同時に発想の原点でもある。思いつくことを並べてみたり、並べ替えたり、連想する言葉をイメージしたりしてアイディアを出すときのベースになる。
アイディアの原点となるのは、言葉だけではなくて、絵も重要だ。絵に描いてみると、具体的な方法が思いついたりすることがある。絵や表を書く練習もしておいたほうが良い。
美術・音楽などの芸術系、文学系も重要な系統だ。これらが無ければ生きていく楽しみが大きく損なわれてしまう。日々、何らかの芸術系に接して、生きるエネルギーを得られる。これらの芸術自体がメッセージを持っていることもあるし、それに触発されてまた表現できることもある。
表現力の源である。美しいと感じること自体が、人間に備わっている能力の中でもとても良いものだ。優しい気持ちもここから来るように思う。
倫理感
世界の富の大部分は少数の大資本が所有している。大資本が、エネルギーを調達して基礎となる原料を製造し、生活物資を作り、流通網を作り、インターネットを作り、テレビや新聞を作り、ニュースも娯楽番組も作っている。
もしも、大資本のトップが、人権と博愛主義を大切にしようと思うと世界は平和になり、そろそろ戦争をしようと思うと世界大戦が起こるのだとしたら、私たち普通の人々は何をしなければいけないのか。
まず民主主義が正常に機能しているのか確認しなければいけないのではないか。何が正しいことなのかよく考えて議論しないといけないのではないか。
自由になるために
政治や経済の仕組みというのは、人脈の強い家系で資産の大きい人が圧倒的な有利になるようにできている。そもそも、今の世界、ほぼすべての国家では、依然として不平等な社会である。
誰もが一人では生きていけないのである。自分自身も一人で作っているものではなくて、社会や自然との接触によって作られているものだということも知る必要がある。自分を高めることは、自分のためでありそれが社会のためにもなる。