父と母は、とても仲が良くて、それでと言うのか、それなのにと言うのか、よく喧嘩もしていた。
父は両親のことを悪く言われると必ず怒るのである。父と母が結婚した時には、もう父のお父さんは亡くなっていて、母もそのお父さんのことはよく知らなかった。発明家で電気屋で鉄道好きだった人である。
父のお父さんは、戦前は鉄道好きで国鉄に入って機関士になった。機関士というのは機関車の運転士のことである。その後、品川では電気メーカーを始めて、電気部品を作り、終戦直前は工場をたたんで、アパート経営をしていた。
国産では珍しかったダットサン自動車も買って、田園調布の急坂を乗り回していたのである。その前はルノーに乗っていたようである。国産車があまり普及していなかったその時代は、車はフォードかルノーであったようだ。
母にしても、会っていない父のお父さんのことは悪く言えない。でも母にとっての夫の母、即ち姑については、いろいろと不満があったようだ。
母は父に対して、「もう、あなたったら、本当にお母様そっくりね!」と言ってから非難の言葉を添えるのである。すると、父がガッと怒り出す。昭和の言葉では「瞬間湯沸かし器」と言ったものである。
母は、父が怒ることを想定した上で、いわば計算づくでその言葉を発しているのか。母は外交官令嬢である。ポーカーフェイスだろうが、ちょっとしたハッタリだったり、そういうことは何というのか血筋として全く恐れなかったのであろうか。母はただ怒らせようとして言っているだけだ。
父はそれに引っかかって怒ってしまうのであるが、怒ってしまうともう負けだ。父は暴力などしたことが全くなかった。戦えば強いのかもしれないが、力では戦わない。そこで、言葉で戦おうとはするのだけれど、女の人には、母には、勝てるわけがない。いろいろと言い合っても、結局最後には、父の方から「もう二度とその話はしないよ」と言って、ふて寝するのである。
子供の時は、パパは弱いんだと思っていたが、実際はそういうことではなくて、優しいんだということに気づいたのだ。僕はパパは優しいという、その重大な発見を、それを6歳上の兄に話したのだけれど、兄は「そうかなあ。パパはやっぱり弱いから逃げているんじゃないかな」と言っていた。全然気づいていないんだ。ちょっとショックだった。
今思えば、父は何と立派であったことかと思う。口汚く罵ることもなく、出て行けとか叫ぶこともなく、物も投げず、机も叩かず、悪鬼の形相で睨むこともなく、ただ「もういいよ」と言って終わるのである。喧嘩としては必ず母の勝ちという形で終了するのである。立派だなあとつくづく思う。
父が投了すると、さっとゲームは終了するのである。母もそこで終わるのである。僕も大いに見習わなくてはいけないと思っている。
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父と母が車に乗っている時も色々と波乱があった。昭和の時代には、カーナビなどなくて、地図帳を広げて道を探るのである。都内では全く問題がないのだけれど、夏休みに長野県や群馬、栃木、山梨方面に旅行に出かけていくと、もちろんほとんどが初めて通る道である。
母は全く運転をしないのだが、助手席に座ったまま色々と指示を出すのである。
1970年代の頃で、僕が10代だった頃の話である。田舎に行って、山道に入り、避暑地とか、温泉地とかが近くなると、だいたい舗装道路ではなくなり砂利道になるのである。これは若い人には全くわからないことだろうと思う。
地図にも載っていない小さな道となることも多いので、地形図を見ながら車で走るようなものである。どこの道があるかは書いてないし、もちろん磁石もないので、真っ暗になってしまうともう全く方位は分からない。
母が言う、「絶対、ここは右よ!」
父:「えっ? 右に曲がってからずっと進んでいるんだぞ。そんなわけない!」
母:「絶対間違いないわよ! 何か感じるのよ! 右に行かなきゃダメよ!」
なんていう感じで、母の言葉に従って右に進むと、散々走った挙句に行き止まりでまた戻ることになる。
父が「言う通りに進んでみたけど、全然ダメじゃないか!」などと言うと、
母は「もう全くそんな小さなことで怒ったりして、小さい男ね!」と全く違う方向から、切り返してくる。こうして、関係はぐちゃぐちゃになっていくのである。
でも僕は道に迷って、夜遅くに右に左に、Uターンしたり、というドライブが大好きだった。そういう時は全く酔わないのである。
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さて、僕と妻との結婚式は、横浜の教会だったのだけれど、父と母が最後まで現れずに大変にやきもきした。道を間違えたりしたということである。
道を一回間違えると、そこで母からの厳しい叱責がやってきたことであろう。母は全く道路も知らず、運転もせず、座っているだけなのであるが、父がちょっと道を間違えたりすると怒るのである。
それは、子供が算数で低い点数を取った時に、母親はしっかりしなさいよと叱る、あの感覚である。母は、算数ももちろん数学もアンタッチャブルであって、近寄ると頭痛がするというタイプである。それでも、子供を叱ることはできるのである。しっかりしなさいよ、と。母は強い。父は強くはない。
とは言ったけれども本当は、父はとても強い人なのである。母も優しい人なのである。それも本当のことなのである。
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30年前には、田舎の山道や林道などに入り込むとなかなか抜けられなくなることがあった。車で運転している話である。登山など歩いて踏み込むところではまだまだ危険がいっぱいである。
車に乗っていると、どこも都会の続きのような気になってしまう。車内の音楽も都会から引きずってきた電気に満ちた音楽である。あるところまでは、都会だったのに、ある瞬間にいきなり予告なしに、それがプチっと切れてしまう。
切れるのは都会との絆である。僕は20代の前半で、ここは夏休みに来たことがあったかなと思っていて、右に行くと大きな通りに出るはずだと思い、右に曲がると突然行き止まりになっている。
真っ暗な道で、もちろん舗装なんかされていなくて、大きな石が転がっていたり、深い水たまりがあったりして、勘違いだったかなとUターンして元の道を戻っても、もうどこにもたどり着くことができない。山道で1時間もウロウロしているような状態になると、本当に心の底から心細くなったものだ。
晴れて気持ちの良い天気であればまだしも、雨が降っていたり、風が強かったりすると、不安が押し寄せてくる。見知らぬ山道。突然、道が終わって、崖になって終わっているかもしれないのだ。
でも、それは昔のこと。悲しいかな、今では、そんな恐怖の感じを楽しめるようなところは日本にはもうどこにも無くなってしまったように思われる。本当に悲しいことで、人の住まない自然がなくなってしまったのだ。
あの時代、山道で迷った時に大きな石がゴロゴロしていた場所は、石を切り出したり、それを砂利にしたりして、都会の高層ビルや高架橋などに作られていったのだろう。山を切り崩すのはもう止めにして、都会の橋やビルのコンクリート建築も止めたらいい。
あの、心細い山の中の道を進む感覚は、懐かしてくても、今はもう得られることがない。GPSの位置情報も使えるので、そもそも迷うということができない。日本だけでなくて、冒険の感覚が得られるところは世界中でどんどんと減少しているのだろうと思う。
そんな楽しくてワクワクするような時代があったことを懐かしく思い出した。ワクワクは取り戻そうと思えば、取り戻せる。そう思うかどうかにかかっているのだ。