両親のこと(1) 亡くなってから思い出すこと、かき揚げ丼とインベーダーゲーム

僕が46歳の時に母が亡くなった。その後、僕が48歳の時に父が亡くなった。昨今では50代半ばで両親が健在という人はかなり多い。逆に50代で両親ともに亡くしているという人は、同僚を見ても少数派であるように思う。

両親がいるということ、両親がいないということ

片親がまだ生きていること、両親が二人とも死んでいないというのは、何というのか先祖からの生命の永遠のエネルギーのパイプが生きて繋がっている感じというのか、エネルギーの交流があるような感じである。両親がいなくなってしまうと、その導管が消えてしまって、栄養の流れのようなものが感じられなくなってしまう。

片親が生き残っているという場合は、母親が生きているという場合が多いようだけれども、そうでなくても、両親二人とも死んではいないということは大変に恵まれたことである。

そう思うのは、愛されて育ったということかもしれない。エネルギーというのは愛情であるかもしれない。確かに愛する人同士にはパワーが相互に送られるだろうと思う。

一方で、友人たちが、遺産の相続で税金がたくさんかかるから、その対策のために同居をするだとか、ちょっとずつ財産分与をするだとかいう話を聞くことは多い。それは決して悪い話ではなくて、前向きな手続きをしているはずなのに、彼らは何だか面倒くさいことを押し付けられたかのように、話すのである。

一体、何が面倒臭いのだろう? 彼らは何が不満なのか、それが僕には全く理解できないのである。理解できないことを通り越して、少しばかり不愉快な気持ちのになるのである。

嬉しいことであれば、それを楽しくやればいいし、そうでなければしなければ良い。お金のことではないと思うのだ。もう僕は同世代よりもその親の感覚に近くなってきている。それは順番の関係によるのだと思っている。

 

「死ぬ儀式」の前にいろいろとできることがあるのだなあと思う。これは子供の立場で言う言葉ではなくて、自分が親の立場になったつもりになった上での感想である。自分が、死ぬ場面を想定した上での発想である。ここが理解できるかどうかで、真っ二つに分かれるようである。

親がいるときはどうしても親が先に亡くなる前提で物事を考えている。だから「死ぬ儀式」などというと随分と感じが悪いと思うかもしれない。でも両親がいなくなると、順番が回ってきたような気になってくる。

そうこうするうちに、子供がまだ小さいのにもかかわらず、先に亡くなっていく、年を取った親の気持ちにだんだんと染まっていくようである。

親が生きている人は、気楽で親任せであるように見える。失業すると就職しろってうるさいんだよなとか、離婚すると再婚しなさいとか、もういろいろと「うるさい」ことを言われているらしい。

このなんだか「ちょっとうるさい」という感覚も親がいなくてはもう得ることのない感覚であることには気が付かなかった。

子供が生まれた時に、やっと僕は親の気持ちが少し分かったような気になった。少しずつ親になっていくのだと思う。ある瞬間にピタッと変化するものではない。直系尊属が誰もいなくなると、その時にまた変化を感じるということを今まで知らなかった。

そういうことも推測としては、親がいないとそういうこともなくなるんだろうなと考えられるのだけれど、実際にそうなった時の感覚は想像とは異なるものである。

年を取ると今まで分からなかったことが、どんどんと見えてくるようになる。人の動きや気持ち、善悪の行方、社会の成り立ちなども見えてくる。実は、家族というのは一番複雑な「族」である。

何かにつけて、いろいろな発見があるものだ。急に目隠しを外されて、青い空の下に走りでたかのように、精密で鮮烈な自然が飛び込んでくる。次々に目の前が開けて、次々に説得力を持つ新しい方法が見えてくる。毎日、たくさんの発見がある。

父と母は1956年5月に結婚した。中野区に住み、2年後に第一子が生まれて、その数年後に第二子が生まれた。

父や母についての一番強い印象というのは、やはり亡くなる直前の頃のことで、今でも視覚的なイメージが強く焼きついている。数年たっても、まだスッキリとしていない。

両親を失うということは、心のどこかで欠損が起こり埋められない穴ができてしまうことであって、それを傷というのかはよく分からない。亡くなる前には病気であったので、どうしても病気と高齢とが合わさって体が弱っていた頃のイメージが強く刻み込まれてしまう。

不思議だけれど、母は死ぬまで何も泣き言を言わなかった。病気の肉体的な痛みや死への恐怖などが強烈に押し寄せてきていたはずの頃にも、母は何も泣き言や恨み言を言わなかった。そんな心のパワーが一体どこに宿っていたのか。

母の死後は父はいろいろと文句を言いまくったけれども、なぜかジメジメしない人であった。改めて、この結婚式の写真を眺めてみると、夫婦ということ、そして父と母であったことが、殊の外特別なことのように思えてくる。心を通わす力がとても強い、というのか、喧嘩をすれば激しく、仲がよければ睦まじく、豊かな感情表現ということに触れながら育った。そして何といってよいのか、とても美しい夫婦だったのだなあと思う。

かき揚げ丼

昔のことを思い出してみよう。何を思い出しても明るいテーマなのだけれども、まず思い出されるのは、食べ物のことである。

僕が大人になってからは、よく一緒に何かを食べに出かけた。天ぷら屋とかそば屋、うなぎ屋などである。他にも、寿司屋とか、とんかつ屋とか、おでん屋、鉄板焼き、ごくまれに蟹料理とか高級フランス料理レストランにも行った。

さて、1996年頃だったろうと思う。父と母と池袋のサンシャイン・シティの天國に行って、かき揚げ丼を食べたら、母がことのほか気に入った。カリッと揚がった海老のかき揚げにタレがふわっとかかって、とてもおいしかった。おそらく母が何か気が塞ぐようなことがあると、母が今日はかき揚げ丼を食べに行きましょうよ、と言って、三人で出かけて行って食べるのである。

この幸せによって、何度も命を長らえたことと思う。食の幸せは大切だと思うのだ。あるいは、そう思うのは、母や父に教えられたことかもしれない。

それからしばらくして、銀座に出た時に、また父と母と三人で今度は8丁目の店に行ってかき揚げ丼を食べたら、ここは天國の本家のようなところであるのだが、なぜだか母は全く気に入らなくて、無言で食べ終わってから、それからは、かき揚げ丼を食べたいと言わなくなった。

とんかつとインベーダーゲーム

父について思い出すのは、僕が高校生か大学に入った頃のことで、家からほんの3kmほど離れたところにあるとんかつ屋さんに父が行きたがるのである。

母はなぜ家に残るのかというと、お腹が空いてないからとか、一人で家でゆっくりしたいから、皆出て行けというようなニュアンスなので、それであれば仕方がないことで、皆で出て行こうかということになる。まあそこには別段の依存はないのである。

こうして、父が兄と僕を連れて、3人で夕食を食べるべく外食に出掛けることになるわけである。

当時は別に何も不思議には思わなかったのだけれど、母はご飯を作らなくていいから楽だわ、と言って明るく3人の男衆を送りだしてくれる。残るは女性母一人である。

父は、とんかつ屋に到来しても、何やら落ち着かないのである。店の親父が「お近くですか?」などと聞くと、「車で来たんでねえ、ええ」などと答えるので、「わざわざ、ありがとうございます」なんて店の親父が答えると、父が調子に乗って「こうやって外食するのも週に一度のお楽しみでしてねぇ、えぇ」などと言っている。

一体何の話をしているのか。突拍子も無いことで、兄と僕とは苦笑をこらえている。

とんかつ屋の向かいには、その当時急激に拡大発展していたゲームセンターというものがあって、インベーダーゲームが大流行した時代だったのである。アーケードゲームという場合もあるようである。

父はこうしたゲームが登場した頃からとても好きで、にもかかわらず「好きだと言ってはいけない」というモラルに裏打ちされていた。大人はゲームが好きだとは言ってはいけないという道徳観だったと思う。

でも子供には禁止しないのだから大人もやっても良いのだろうと思うのだけれどそう思うのはいまの「ふわふわした」大人である。

要するに父は、とんかつ屋から出てきても、ダイレクトにゲームをやりたいとかは一切言わないのである。それでも、店を出ると、僕らに「おや、ちょうど目の前にゲーム屋があるぞ。ゲームでもやりたいんじゃないか? 今日は特別にやってもいいぞ」と言う。

そもそも、その当時はどのような組織や団体からも、ゲームが禁じられていなかったので、普通に通学の行き帰りとかにもゲームセンターに寄ったりすることは何ら問題がない時代だったのである。パチンコなどとは違って、お金をかけることはないので社会からは完全に健全な活動と見なされていたのである。

ただ一部の大人の人たちは、それは僕の父のように、大人が漫画を読むのが恥ずかしいという感覚はあった。そのような羞恥心だけで大人は、ゲームセンターに入れない時代があった。

それでも父がゲームをやりたいということは、分かっているので、「うん、ちょうどゲームしたいと思ってたんだ」と答えると、父は別に喜んだ風も何も一切見せずに「子供達の保護者として、仕方がないからゲームセンターに引率する」という感じで、「じゃあゲームセンターに行こう」と言って、先頭になり店に入って行くのである。

「お楽しみ」と言ったのは、とんかつではなくてゲームセンターであったのかとようやく気づくのであった。

任天堂のファミリーコンピュータ

ゲームといえば、僕が学生の頃に任天堂のファミリーコンピュータが販売されて、我が家でも早速買ったのであった。1983年の12月のことであった。

ある時、父が言い出して「ファミコンってのが出るらしいね」と言う。僕は「ふうん、へえそうなの」と全く気のない返事をしていた。僕はわざと曖昧な返事をしていたのだ。父はもっとはっきり言ったらいいのにと思っていた。それからファミコンが発売された。

1か月ほどすると、父もだんだんと腹が決まってきたのか、「パパはね、あのね、いわゆるね、ファミコンというものをね、買おうと思うんだけどね」と言う。「いいねえ。買って、買って!」

ということで、ファミコンを買ったのだった。最初に買ったゲームは、何だったか、僕が選んだのはスーパーマリオだったように思う。父はテトリスが面白いと聞いているということでテトリスを選択。他にゴルフゲーム。

1984年の正月はファミリーコンピュータで楽しく過ごすことになった。まさに、「ファミリー」という名称が完全にフィットしていたと思う。ファミコンは、父と僕が交代で遊んでいた。兄は26歳で結婚して家を出た後だったので、この時はもう中野の家にはいなかった。その時期は中野の家では、父と母と僕の3人家族であったのだ。

母は「ママはファミコンなんてそんなもの絶対やらないわよ」と強く宣言していたのだけれど、僕が正月の夜中2時頃にふっと目が覚めて居間に降りてきたら、母がスーパーマリオをゲームしていた。右にジャンプするときに体を右にふわっと動かしていたのである。

年末から正月の20日間くらいの間、母は僕と父がゲームをしている間、ちらちらと見ていながらも、やらないの?と聞くと、絶対やらないと答えていたのだ。それが、夜中にこっそりとやっていたので、何だかとても嬉しくなって、「ママ大好き」と思った。実は面白そうだとはずっと思っていたのだ。

夜中に、ゲームをしている姿を見つけられた後は、その直後から、もうすっかり開き直っていて、なんだか果敢にゲームに取っ組んでいた。その時はスーパーマリオだったのだ。

それからはテトリスも一緒にやるようになった。

でもなぜ最初にゲームをするときには、一緒にはやらなかったのか、どのような心の作用があったのかは、よく分からない。ゲームというものは、母にとってはその父である外交官でかつては大使でもあった家の息女としてふさわしくないと思ったのであろうか。

何れにしても一緒にゲームをやるようになって楽しくなった。ゼビウスは母は好まなかった。

最初は、父がゲームを先行していたこともあって、母がゲームでテトリスをする時に「そうそう、右」とか「左」とか「回転」とか、父が母に言う場面があったのだけれど、しばらくすると、母はそこそこうまくて、間もなく父よりも上手くなってしまった。

すると父は何も言うことができなくて、しかも下手をすると母にバカにされるので、テトリスはしなくなってしまった。男が弱いのか、何なのか。なぜ母はバカにするのか。父はなぜそれに屈してしまうのか。そんな時に、僕は大変に複雑な気持ちになるのである。

 

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