初夢

初夢

正月になり、初夢についてのある体験を思い出した。何十年も前の小学生の頃のことである。僕が学校で元旦の朝に見た夢のことを話したら、それは初夢じゃないよと言われて、一日の夜に見た夢を初夢というのだと言われた。「ふうん、そうなんだ」と特に気にも留めていなかった。

そう言われた時の、何とも言えない微妙な感覚が数十年ぶりに蘇って来た。この感覚こそがここで話題にしたいことである。それは2か月間断酒している効果で脳内のある部分が活性化したからかもしれない。

小学生の頃は、インターネットもなければスマホもない時代である。こう言ったけれども、調べれば正しいことが分かるとか、正しいことが分かれば解決するとも思っていない。そもそも、真実は一つとは限らないし、かりに真実らしきものが判明したとしてもそれで一件落着するというような話をしたいわけではない。

注意書きをしておくと「あくまで個人的な事であり、感情の問題であり、ここには役に立つノウハウや知識はありません」とった感じだ。

**

僕が体験した感覚は、何と言ったらよいのだろうか。何か否定されているけれども納得がいかないというか、そもそも何かを主張すらしていなかったのに反論されてしまったというのか。

会話の中の話者AとBは、互いに発言とその反応にロジック的なミスはないものの、何か楽しそうではない、というような。いろいろなものが混ざり合っているように思われるのである。

**

ここでまず初夢とは何かと定義を考えてしまうのは、大人だからである。「初夢とは、年が改まってから初めて見る夢のこと」と言えば、間違いではない。

ずるくて賢い大人は「年が改まる」の部分にすぐにもひっかかってしまうだろう。

夜中の0時、あるいは夜12時に(これもどう言えば正解ということではないのだが、いろいろなひとの意見を聞いて行くと大変なことになってしまうものだが)、日付が変わることは小学生だって知っている。ただしこれは現代のことである。

「一富士二鷹三なすび」などと言われ始めた頃には、誰もが時計を持っているわけではないので、夜中には日付が変わるわけではなかった。江戸時代までの時刻は、日の出から一日が始まるのである。

夜中の12時では一日の始まりが曖昧でいけない。日の出であれば明るくなってくるし、お天道様がちょっと出たらもう日の出だということにしておけば分かりやすい。

**

ということは、日の出以降からが一日の始まりであり、元旦の日の出が一年の始まりということになる。

日の出以降にお参りするのが初詣ということになり、神域の山頂からのご来光というのも、それが一年の始まりであるからということで納得感がある。夜中に真っ暗な中で神社やお寺で行列するというのは、きわめて現代的なことなのだと分かる。

**

初夢というのは、江戸時代までの感覚で言えば、元旦の朝に見るものではなかったであろうと想像する。寝坊な人たちもたくさんいただろうけれども、日の出の頃にはもう起きている人が多くいただろう。だから、初夢というのは「新年になってから見た初めての夢」であるから、元旦の夜に寝て、その夜から明け方までにかけてみる夢が初夢になるというロジックである。

元日の朝、日の出以降に目を覚まして、「俺はたった今夢を見てたよ。いい夢だったんだよ。それで飛び起きたんだ。いい初夢だったなぁ」っていうと、これは初夢かと問えば、初夢だと言っても良い。

けれども、夢を見ている本人にはなかなか時間は分からないので、はたで見ていた人が「お前さんは寝言でいい夢だって言ってたよ。夜明け前だったけどさ」というのであれば、それは初夢ではなかったかもしれない。

**

初夢を考えるには、「新年の考え方」と「夢を見た時間」ということがキーになってくるが、結論として言いたいことは、そういうことではない。

「一富士二鷹三なすび」に至っては自分とは全く関係がないし何の興味も感じない。これらはどうでも良いことなのだ。新年の始まりの基準とか夢の縁起とかも全く意味のないことだと思っている。今までの人生の中で初夢というものが何か意味があったことは一度もない。

僕の感じているもやもやとしたものとは、このあたりにあるのだ。僕は初夢という言葉を聞かされて知っていたけれども、言葉を取り扱うスキルを知っていたわけではないのだ。

意味がないものなのに、当時も意味があるものとは思っていなかったのに、つい意味もなく口にしてしまうということがあり、何か悔しくて仕方がなかった。そして、不覚にも口にしてしまったことを否定されてしまうのだ。

「それは間違っているよ」的なニュアンスで言われて、「元からそんなに真面目に話したわけではないんだけど・・・」、放った言葉が宙を舞ったままでさーっと消え去らない。

**

これは別に僕が誰かに間違いを指摘されたから悔しかったという話ではない。本当につまらないことを言ってしまったという後悔というだけでもない。つまらないことを言ってしまったことを、たまたま指摘した人の責任になればしめたものと、後付けでいろいろと新年の定義などをひねり出してきたことが後ろ暗いのである。

面白くもないことや良くないことを言ってしまった時、自分と向き合ってそれを受け入れるというわけではなくて、なぜか知らないがどこかの誰かに言わされているような気がしてしまう。それは特定の人ではなくて、集団とか組織とかかもしれないが、空気の中にそのようなエーテルが満ちているかどうか識別する術はない。それに対して、ことあらば正当化しようと身構えている自分がいるような気がして落ち着かない気分になるのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください