『悪童日記』と私

ある友人がアゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ時、僕の事を思い出したとずいぶん前に言ったのを思い出した。主人公の双子の小さな男の子たちが、ドライでブラックな行動(時には殺人も)を取りながら過酷な環境をくぐり抜けていくドラマである。

明示的には書かれていないが、懇切丁寧な訳者が「第二次大戦中のハンガリーの話である」と教えてくれる。しかしそれはこの小説においてほとんど意味を持たない。原題は、”Le Grand Cahier”で、「大きなノート」という意味である。

作者はブダペストを敢えて<大きな町>と書き、子供たちを疎開させる小さな田舎町を<小さな町>と記しているが、これで十分であり、かつこれ以上の注釈は何も要らない。そこに攻めてくる人間がドイツ人だろうとロシア人であろうと小説には影響しない。

双子の少年たちは、徹底的な合理主義と客観的精密をきわめようとする。彼らを取り巻く環境に対する対処方法を見ても、不自然なほどに完璧である。小説は決してリアリズムには則っていない。僕らの社会が「良い事」と設定していることを少年たちが正確に達成すればするほど、不気味な印象を与える。不気味な印象を与えるのは、彼らが子どもであるにもかかわらず大人のような話し方、考え方をするからではない。彼らが明らかに大人以上に優秀であるからだ。

大人は、生きて来た歴史と人情としがらみに引きずられている。しかし少年たちは何にも影響されない。本と周囲の大人の世界の生死だけを見ている。

僕たちの生きる現代の社会とは、実はこういう人間を育てるための教育をしてきたのだということをこの小説を通じて思い知らされる。合理的かつ効率的な成果主義である。感情を排した実行力を叩き込まれる。仕事を遂行するためには心を鬼にして取り組まなければならないこともあるのだと、僕たちの社会は子供たちに教えている。僕の記憶ではそんな道徳は最近までなかった。

少年たちは苦痛に耐える訓練を行い、鳥の首を落とす練習をして、涙を流さない練習をする。知識と語学の習得に励む。語学に対する少年たちの熱意は目を見張るものがある。生きるも死ぬもコミュニケーションの力と交渉力にかかっている。

作者の意図は、悲惨な戦争の時代を書こうとしているのでは無い。このシニカルな内容の奥に潜む「リアルな現代社会」を描き出している。寓話的な文章を通じて、現代社会の構図をはっきりと浮かび上がらせている。


彼らは自分たちだけで作文の練習を始める。一つの主題を扱うのに持ち時間は二時間で用紙は二枚使える。二時間後彼らは用紙を交換し、辞典を参照して互いに相手の綴字の誤りを正し、頁の下に「良」または「不可」と記す。

彼らは厳しい規律を持っている。「おばあちゃんが魔女に似ている」と書くことは禁じられているが、「おばあちゃんは”魔女”と呼ばれている」と書くことは許されている。「この兵隊は親切だ」と書けばそれは必ずしも真実ではなく、実は知られざる意地悪な面が存在するかもしれない。この場合は「この兵隊はぼくらに毛布をくれる」と書く。

双子の主人公は言う。
「感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。」

こういうセリフがきっと僕を連想させたのだろうと思う。でもこんな僕もT君(謎のエンジニア)には情緒的かつ曖昧に過ぎると批判されるのである。僕はついこんなことを言ってしまうのだ。「○○屋の蕎麦は××屋の蕎麦よりも値段が4割も高いのに、味はせいぜい1割増し程度なんだよ」


注)若い頃はこのようなことが言えたが、今はもうそういう気楽な食べ物の好き嫌いが言えなくなってしまった。人の親になるというのは、大変に厳しいことなのである。


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